8月
04
個と全

ミクロとマクロ
凝視と周辺視
点ではなく流れ、しかし正確な点は必要
 等々。

最近の合奏で色々難しい言葉を並べた。(いや、「いつも」だろうな…)
申し訳ないが、みんなが解ってくれたかどうかは二の次だ。

解りやすい言葉を選んで説明し指示することは、教授技術の基本だとは思う。
しかし、心の片隅でいつもそれを疑問に思っている。
なぜなら、まだ言葉を知らない子供は、その言葉が解りやすいかどうかですら解らないのだから、子供自身が「わかりにくいから」と取捨選択することはないように思うから。(ある程度成長し余計な知恵が付くとそれをしだすだろうが。)
提示する側が「これは難しいだろう」という勝手な推測で言葉を限定するだけだ。

ということで、難しい言葉だから理解できないだろう、は失礼な気がしている。難しくてもいつかは理解できるはずだ、今言わないでどうする、というスタンスだ。

「可愛いペットに対して赤ちゃん言葉(○○ちゃぁ〜ん、ごはんでちゅよ〜、など)は失礼である、なぜならペットだからといって幼い子供ではないのだから。立派な成犬だろ?」という意見は秀逸であると思う。

もっとも、それを理解しようとする姿勢は常に求められる。

以前「不親切」について書いたことがある。
解りやすい事だけが大切なのではない。考える機会を奪ってはならない。

 〜なかなか理解されない意見だろう… ま、いいや。〜

 
さて。
明日は県大会。
至上の喜びは得られるだろうか。
やった人だけが得られるご褒美。みんな戴けると良いね。

積み上げてきた成果が問われる。
そしてその成果がまた今後の成果につながる。
1週間先。1月先。1年先。5年先。10年先。もっと先。

今までずっと、明日の本番をやり過ごすためだけの小手先のモノを伝えたつもりはない。
一生持ち歩いて欲しい。

そんなスパンで種を蒔いてきたつもりだ。少しは芽が出たかな?

桃栗3年柿8年柚子の馬鹿たれ13年。
実がなるのはずっと先だ。
その時に思い出してくれればいい。
その時に意味をわかってくれたら幸せだ。
 

「明日を生きる意味が判らない」から「生きてるってあたたかいことなんだ」に変わっていく。
生きる力ってのはそういうことだと思う。
育てるってのはそういうことだと思う。
ガッコウとはそういうところであって欲しい。

TSW万歳!

8月
04
やっと

梅雨が明けたらしい。

夏だ。
朝から(いや、何故だか夜中も…)蝉がうるさい。

あと一日。
何を望んでいるのか?
何をするのが良いのか?
何が出来るか?
 

どんなときも無条件で信じること。
自分への課題。
で、どうだったのか?