10月
31
人道の丘公園

へ行った。2度目。岐阜県の八百津町にある。
「命のビザ」で知られる杉原千畝の功績を称える公園。

彼の生まれ故郷の丘の上に公園がある。静かでとても良いところ。モニュメントの鐘が訪れた人により時たまカラーン、コローンとならされる。公園内は綺麗に整備され心地よい。近くにいくつかのハイキングコースもあるようだ。
「とんびに注意」と看板。周りを眺めてみれば何羽も気持ちよさそうに鳶が飛んでいる。外でお弁当食べてると狙われるのかな。
犬連れなので入らなかったが、記念館があり、内容は充実しているようだ。次回ゆっくり見たいと思う。
体制に背いても自らを貫き通した生き様をきちんと知るべきだと思う。

近くには木曽川が流れていて、丸山ダムという大きなダムがある。
その堰堤を作り直し新丸山ダムにする計画が進んでいるらしい。
公園の近くに少し不自然に大きなお屋敷が並んでいたが、もしかしたらダム建設のために移転してきたお家なのかな?このダム計画も今回の中止リストに入っているケド…。

実は先回来たときは公園の存在を知らずにダム側の山道(木曽川を挟んだ対岸)から闇雲に進んできたのだった。その道筋には、つい最近放棄されたのであろう家屋や畑がいくつもあって不思議に思っていた。そしてそのダム堰堤付近で大きなニホンザルの群れに出逢った。50頭くらいはいたんじゃないかと思う。車を止め、しばらくずっと行動を観察してとても興味深かったことを覚えている。

今回はその不思議を検証し猿の群れに再会しようと出かけたのだが、立ち入り禁止の看板が多く、その道に再び入ることはかなわなかった。で、廃墟はダム工事の関係なのかもしれない、と思った。

個人のちっぽけな営み、大きな体制の動き、大自然。
そのバランスは大丈夫なのか。

10月
30
日中に

テレビを見ることが多くなった。当たり前か。でも実につまらない。特にワイドショー。
(国会中継は面白いよ。)

世の中色んな事件がある。
だからそれを報道する。
専門家がそれを解説する。

報道は中立性を大切にしているだろうし、レポーターは一生懸命取材し専門家は報道よりさら詳しく論理的裏付けを元に掘り下げる。
必要だし当然だと思う。

しかし、その先は疑問だ。コメンテーターという人が出てくる。色々「感想」を述べ「意見」を言う。したがって根拠のない無責任な感情論が出てくる場合だってある。
そこそこ見識ある方がそれをするならある程度容認するけれど、ほとんど井戸端会議のような内容を聞かされると少々不快になる。自分が不快になる分にはスイッチを切ったりチャンネルを変えれば良いので構わないのだが。

世の中に人はその根拠のない下世話な話を、テレビ番組というお墨付きをもらった正しい意見と取りかねないんだよね。「昨日テレビで〜〜がこんなこと言ってたよ!」って。

今日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会は、ある番組で不正確で不公平な報道があったとして重大な放送倫理違反を指摘したけれど、そんなチェック機構だって世間が染まった後では取り返しがつかないこと多いだろうに。

テレビ番組の話題が二つ続いてしまった。

10月
30
わたしのきもち

というのは番組名です。

人付き合いのスキルを奪って仲たがいさせ世界征服をたくらむモラッチャ王。
スキルファミリー三好一家はその野望を阻止するために立ち上がる。

今回奪おうとした物は「ツタエル」。
子犬を抱いて「可愛い〜」と盛り上がっているなかで「犬は苦手なんだ」と言えずひとりぼっちに。なぜならモラッチャ王に「ツタエルスキル」を取り上げられたから。それに気付いたスキルファミリー三好一家はモラッチャ王を懲らしめそのスキルを取り戻す。「ボク、犬が苦手なんだ」と伝えて誤解が解け、メデタシメデタシ。

うーん。これが番組になるって事はそれだけ問題視されてるって事で…。
そうでもしなければいけない現状を憂いてみたり…。
しかしそれでも伝えなければ始まらないので、大切なことだな、と思ったり…。
受け手側としては「これ見せとけばいいや」と安易になってしまわないか、とか…。
「伝えられない人」本当に多いからなぁ、そういう自分もちゃんと言いたいこと伝えられないこと多いよなぁ…。

色々考え込んでしまってWEBの番組紹介を見た。そして、当たり前だけど幼児用教育番組は凄くよく考えられているんだなと改めて感心した。
例えば最近自分の中ではまっている「アルゴリズム行進」は体操のカノンだけど、それを小さいうちに体感しておくっていうのはとても意味があるだろうし。
「お話でてこい」は自分が小さい頃、わくわくしてお話を聞いていたのを思い出した。自分の「本を読む事の原点」はここにあったんだ、と再認識したし。

ただ、これらはきっかけに過ぎないんだと思う。
そういったちょっとしたきっかけから、その意図を汲み、日常レベルで活かしていけるようにするのは、子供本人ではなくごく近くにいる周りのオトナなんだろう。
本人の自発性を大切に、なんて言ってる場合じゃない。というより、そんな番組見て「きゃきゃきゃ」と喜んだ瞬間が自発性を発揮した時で、それを持続・発展させていく為には周りの手助けがいるんだよ、きっと。
「じゅげむじゅげむ…」と覚えたい、と思った瞬間はたぶんみんなあるわけで、しかし子供は飽きっぽいしすぐ忘れちゃうから、その気持ちを見つけ持続させ激励し最後の「長久命の長助(だっけか?)」まで覚えさせ、全てをさらさらと言えるようになったら賞賛するのは周りオトナなんだと。

ちいさいときのそんな繰り返しが何十年後に大きく影響するような気がする。

10月
26
8重奏の

楽譜がだいたい片付いた。
アンサンブルコンテスト用に先週頼まれた変則編成の8重奏アレンジ。

原曲はドビュッシーのピアノ曲なのでそれっぽい音がするかどうか少し不安。
なるべく簡単にしたつもりだけどそれでも難しいかもね。
なにせFl、Cl×2、A.Sax、Hrn、Trb×2、ContraBassのOctetだから、アンサンブルのバランスとるのがそこそこ工夫が要りそうだね。
アレンジに際しては、持ち替えとか金管のミュートとか色々考えたけど、結局なにもせず。
ま、実際に音出してみて考えよう。

それにしてもFinale2009はスコアのファイルの中にパート譜データ持たせる事できるんだってことに気が付いた。だからスコアを手直してもそのままパート譜に反映される。をぉぉ!リヴィジョンの管理が楽になったぞ。
まだ慣れない機能の変更につまずいて時間食うけれど、いい感じだ。
あ、でも、アーティキュレーションでアクセントテヌートがデフォルトで無いのは困っている。いくら探しても新しいフォントセットに入ってない。いちいち以前のフォントセットで作らなきゃダメなの?

別の話だけど、メインマシンに入っていたウィルス駆除プログラムを変えた。そしたらとたんに調子がよくなった。
Firefoxは落ちなくなったし。Finaleのネット認証もすんなりいったし。スキャン中のイライラも無くなったし。
いろいろやってみるものだな。

10月
25
忍び寄る?

昨日気が付いた。
いつの間にか忍び寄ってきている!
Googleストリートビュー。

自宅近所を詳細に検証してみた。
様々な角度から見てみたけれどストリートビューの視野に中に我が家はない。
全ての道を網羅できていないようで、偶然にもどの道からも見えない。
(道はどうやって選択するんだろう?一本道なのに通っているところとそうでないところがあったりする。運転手に任されるのかなぁ?)

10月
24
収穫

先日柿を収穫した。

ずっと何もせず野放図のままなのに。隔年で多かったり少なかったりだけどけなげに毎年実をつける。今年は豊作年。たわわになった。

柿の枝もどんどん広がって高くもなり、隣地へだいぶ迷惑かけてるので、収穫と同時に剪定を試みた。
随分強く切った。少し調べはしたが、全くの素人だから枯れちゃうかもね。

で、スーパーの買い物かご大盛り3つ分の収穫。
実は甘柿で美味いとはいえ、いくら何でも消費しきれないゾ。
以前、柿の加工(ジャムとかシャーベットとか)を試みたことあるけれどうまくいかないんだよ。
結局全部干し柿の味になる。おいしいんだけどね、飽きちゃうんだ。

さて、どうしたものか。近所に配るといってもどこの家も柿の実なってるし。
お互いに「柿いらない?」って言ってる。
そのうちじゅくじゅくになってくるし。
ま、せっせと食べます。

この冬、庭にバードフィーダーを作ろうと思っているから、先駆けで毎日実を吊しておくかな。

10月
20
今朝の朝刊から

いくつか言葉を見つけた。

「自然は人権の源である。しかし、自然は権利を持たない。 テツオ・ナジタ」
大江健三郎の一文にあった。
私は無償の愛に思いを馳せた。

もう一つ。
「財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり。されど、財なくんば事業保ち難く、事業なくんば人育ち難し。」
楽天・野村監督のぼやきにあったそうだ。「あと一年あったらもっと育てられたのに。」
 

ゆっくり朝刊を読む時間があるのはやっぱりいいなぁ。

10月
19
11月15日に

1000人の吹奏楽という企画がある。
ナゴヤドームである大きなイベントの中の1つで、単独の企画ではないのだけれど、愛知県の吹奏楽仲間が集まって午前中に1時間ほど演奏をする。集まるのは名古屋・尾張地区、西三河地区、東三河地区の私学を中心とした高校が集まる3つの合同バンドと名古屋市内の1つの中学校。TSWも東三河合同で参加することになっている。

いずれは吹奏楽だけの単独企画に持っていけたらという密かな願いもあるらしい。

それぞれの合同バンド単独演奏を、全員参加のオープニングとエンディングで挟むことになるみたい。ドームのフロアでやるからマーチングの要素も含めたちょっとしたショーになるのだろう。

ここでも少し紹介したけれど、このオープニングで2曲(ファンファーレと入場行進)、エンディング(セレクトバンド:あんがく、ひかり、さくらの三校合同:の伴奏で参加者が踊る!)で1曲、合計3曲私の楽譜を使う。
オープニング2曲は少し特殊な曲だけど、エンディングで使うのは色々な場面で使っていただけたら、と思っているものなので演奏されることになると嬉しい。メドレーオブKYUという曲。これをきっかけにまた何処かで使ってくださいね。
もともとマーチングバージョンなので、そのうちコンサートバージョンつくろうとおもっています。(といってもパーカッションいじるだけだけど…)

10月
18
少ない練習で

1つの本番があり、演奏した。

不可抗力のアクシデントもあったがそれはどうしようもない。当事者の責任でもないよ。残念だったけどね。
次回のお楽しみに取っておこう。

そのペースがこなせるようになる、ということは実はとても大切なことだ。

今回、譜読み程度のレッスンが1回。一日かけて全体(3楽章)を丁寧にやったのが1回。本番前日の1時間のリハ。直前30分ぐらいの最後の調整。
楽譜配ってから本番まで20日くらいかな。
曲はホルストの1番だからバンドの名曲中の名曲。自分で勉強しようと思えばいくらでも出来る。技術的な難易度もさほど高くないから何とか音は並べることは出来る。そんな好条件だったからかも知れないけれど。
べったり付きっきりで全ての部分の面倒見無ければ何ともならないレベルはクリアしたのだろう。

とはいっても最後まで要求通り音の出ないところはあった。何度やっても上手く行かないところもあった。まだまだ不完全ではある。それがどこか自分達でわかるよな。ダメ出しは手を抜くなよ。

だから次の目標は、「このレッスン回数」で、しかも「譜読みから本番までの期間が1週間」で出来るようなレベルまで引き上げたいね。
そのためには読譜力、練習の方法、楽器演奏技術やアンサンブル能力のレベルアップ、などが必須だ。楽譜そのものはほとんど初見でこなせるレベル。しかもその上で必要な音楽要素を表現できる、したい、という自分自身の欲求も持ち合わせていなければならない。
そう、その楽譜をもらって練習する以前の力の蓄えが必要なんだな。言い換えるとそれを実力という。

頑張って絞り出してやっと、ではなく、普通にやれば当然そうなる力。
その力を持って、ゲネ本でこなしていけるようになれば、やれることは桁違いに増える。

そのレベルまで来てようやく本来の意味で「音楽」が楽しくなる。自由自在に楽器が操れて音楽をコントロールし皆とシンクロできる楽しみ。

是非、次の本番はそれを目指す。

10月
14
バリアアリー

と言う言葉を聞いた。ん?なるほど!

あるデイサービスセンターのお話。
日常生活では至る所にバリアーがある。避けて通れない事が多い。だから敢えて館内はバリアフリーにしておかない。箱が積み上げられ、通路はギリギリ。
食事はセルフサービスのバイキング。食器もカウンターにそれぞれ箱入りで並べられていて自分で取り出す。
食べ終わったらもちろん自分で食器をカウンターに返す。
車いすの人も歩行器の人も、誰もがそうする。もしこぼしてしまったら自分で片付ける。

「この方針に変えた当時は随分反発されましたよ。たくさんお辞めになりました。でも、誰のために、って考えたらこうなりました。」

そこにいる人達はとても生き生きとしていた。笑顔が絶えない。声が大きい。賑やかだ。
90過ぎのおばあちゃんが「こんなの何ともないよ。自分のことだもの。」

施設内通貨があり、作業をするといくらか手に入る。自分自身の作業でももらえるが、名前札をつくったり暖簾をつくったりと施設内の作業の場合もある。
その通貨でパソコンを利用しネットでアイドルを調べて「ウィッシュ!」と喜んでいるおばあちゃん。「ばくちやるんだ」と花札で遊んでいるグループもある。中国語を勉強している。足湯も通貨が要る。

ご飯が食べたいから自分で準備する。遊びたいから奉仕する。以前のように奥様と旅行に行けるよう歩きたいからリハビリする。
そこには全く悲壮感は見られない。みんな素晴らしい笑顔だ。
帰り際「明日も来るよ、楽しいもん。」
ここの人達は、少しずつ要介護度が軽くなるらしい。立てなかった人が一人で階段の上り下りが出来るようになるのだもの。
 

「昔は全然活気がなかったんです。ある時、ある人が『桜を見たい、だから歩きたい』と言った。それで、ここの人達は〜したい、が無かったんだと気が付いた。」(普通は「桜が見たい」と言われたら”親切に車いすに乗っけて連れて行ってあげる”のだろう)
桜を見たいから、毎日の歩行訓練を”したい”。”来年の桜は自分の足で見に行く”という目標を持って。
「やらされる」のでも「やらなければならない」のでもなく。「やりたい」のだ。

全部自分達にやらせれば、職員はさぞかし楽だろう、と思ってはいけないと思う。本当は「やってあげた方が楽」なくらい陰で大変なんだと思う。

後で気が付いたがその番組は「逆転の発想」というテーマだった。
そうか、やはりこの発想は普通じゃないんだ。
「介護してあげている」という美しく見える行為が、一歩間違えると実は自発性を根こそぎ奪っているという部分に着目するのは一般的には難しいのかも知れない。
 

ずっと思っている「不親切の重要さ」を証明していて、嬉しかった。
しかし同時に、
「でも、もともと『〜したい』の想いが少ない最近の人達はどうするんだろう?」
と不安になったことも事実。