10月
30
日中に

テレビを見ることが多くなった。当たり前か。でも実につまらない。特にワイドショー。
(国会中継は面白いよ。)

世の中色んな事件がある。
だからそれを報道する。
専門家がそれを解説する。

報道は中立性を大切にしているだろうし、レポーターは一生懸命取材し専門家は報道よりさら詳しく論理的裏付けを元に掘り下げる。
必要だし当然だと思う。

しかし、その先は疑問だ。コメンテーターという人が出てくる。色々「感想」を述べ「意見」を言う。したがって根拠のない無責任な感情論が出てくる場合だってある。
そこそこ見識ある方がそれをするならある程度容認するけれど、ほとんど井戸端会議のような内容を聞かされると少々不快になる。自分が不快になる分にはスイッチを切ったりチャンネルを変えれば良いので構わないのだが。

世の中に人はその根拠のない下世話な話を、テレビ番組というお墨付きをもらった正しい意見と取りかねないんだよね。「昨日テレビで〜〜がこんなこと言ってたよ!」って。

今日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会は、ある番組で不正確で不公平な報道があったとして重大な放送倫理違反を指摘したけれど、そんなチェック機構だって世間が染まった後では取り返しがつかないこと多いだろうに。

テレビ番組の話題が二つ続いてしまった。

10月
30
わたしのきもち

というのは番組名です。

人付き合いのスキルを奪って仲たがいさせ世界征服をたくらむモラッチャ王。
スキルファミリー三好一家はその野望を阻止するために立ち上がる。

今回奪おうとした物は「ツタエル」。
子犬を抱いて「可愛い〜」と盛り上がっているなかで「犬は苦手なんだ」と言えずひとりぼっちに。なぜならモラッチャ王に「ツタエルスキル」を取り上げられたから。それに気付いたスキルファミリー三好一家はモラッチャ王を懲らしめそのスキルを取り戻す。「ボク、犬が苦手なんだ」と伝えて誤解が解け、メデタシメデタシ。

うーん。これが番組になるって事はそれだけ問題視されてるって事で…。
そうでもしなければいけない現状を憂いてみたり…。
しかしそれでも伝えなければ始まらないので、大切なことだな、と思ったり…。
受け手側としては「これ見せとけばいいや」と安易になってしまわないか、とか…。
「伝えられない人」本当に多いからなぁ、そういう自分もちゃんと言いたいこと伝えられないこと多いよなぁ…。

色々考え込んでしまってWEBの番組紹介を見た。そして、当たり前だけど幼児用教育番組は凄くよく考えられているんだなと改めて感心した。
例えば最近自分の中ではまっている「アルゴリズム行進」は体操のカノンだけど、それを小さいうちに体感しておくっていうのはとても意味があるだろうし。
「お話でてこい」は自分が小さい頃、わくわくしてお話を聞いていたのを思い出した。自分の「本を読む事の原点」はここにあったんだ、と再認識したし。

ただ、これらはきっかけに過ぎないんだと思う。
そういったちょっとしたきっかけから、その意図を汲み、日常レベルで活かしていけるようにするのは、子供本人ではなくごく近くにいる周りのオトナなんだろう。
本人の自発性を大切に、なんて言ってる場合じゃない。というより、そんな番組見て「きゃきゃきゃ」と喜んだ瞬間が自発性を発揮した時で、それを持続・発展させていく為には周りの手助けがいるんだよ、きっと。
「じゅげむじゅげむ…」と覚えたい、と思った瞬間はたぶんみんなあるわけで、しかし子供は飽きっぽいしすぐ忘れちゃうから、その気持ちを見つけ持続させ激励し最後の「長久命の長助(だっけか?)」まで覚えさせ、全てをさらさらと言えるようになったら賞賛するのは周りオトナなんだと。

ちいさいときのそんな繰り返しが何十年後に大きく影響するような気がする。