11月
18
情けない人達

は相変わらず情けないままのようだ。
1つ1つ事例を挙げるまでもなく。

あんたらこの先々大丈夫かよ!と余計な心配もしたが、これからはそういったこと全てしないと決めた。
そのエネルギーがもったいない。

以前ピュアな関わり方と書いたが、ようやくはっきりとその状態になったと思うので、今までそれを阻害していたところへの遠慮は一切しないことにする。

しかし、その報告は途中経過を含めて、いまだに全くされていないらしい。昨日知った。
なんのこっちゃ。
それが一番ダメでしょ!
私自身がそこに関わるつもりはもう既にないけれど、呆れてモノも言えないとはこのこと。これでは情けない人が増えてしまうよ。

であるからには、本筋に戻り、もう少し体勢を立て直す事をしようか、どうしようか…?
回数と物理的距離はどうしようもないからな。

少なくとも、忘れたり、やらなかったり、落としたり、出さなかったり、のような、より良い物にする執着心の薄れや、他への責任転嫁は何とかした方が良いと思うのだが…。

11月
18
感情移入

ってのはイメージの再構築なんだよな。
知り得た情報を元に、自分の持っている知識知覚(想像も含めて)を総動員しながらなりきること。

本を読んでその状況に入り込む。
映画を見て主人公になりきる。
話を聞いて自分もそこで実体験したような気になる。

如何に、今までの自分の中に無かったものや、未経験のことを、イマジネーションするか。
その力が足りなければ、人の痛みは到底理解できない。だって、自分は痛くないんだもの。

私の50肩の痛みの強烈さは、イマジネーション力の無い50肩未経験の人には絶対理解できないんじゃないかと思う。(厳密に言えば、イマジネーション出来たとしても本当の痛さは判るかどうか疑問だ。自分には痛みはないからね。)

だからへらへら笑って気軽に「頼みますわ」みたいな態度しか出来ないのだとすると、それ以降どうやっても痛みはわかってもらえないのだ、と諦めるしかない。能力の限界かもね。バカの壁というヤツだ。
しかし、それでも意義は大きい。「頼みますわ」と認めたのだから。

イマジネーション無しの音楽は音楽ではない。ただの音だ。

創る側は如何にイマジネーションを誘引するか。
音出す者は楽譜からどれだけのイマジネーションを引き出せるか、そして聴く人に伝えるか。
聴く人は、その一連の流れの中でどこまでイマジネーションを遡れるか。

音はただの物理的振動だ。そこに音楽という付加価値があるのならそれは人のイマジネーションしかない。

大切なモノは、音、そのものだけではないし、また、その瞬間に見て聞いて解って次の瞬間には忘れてしまうような軽薄短小なものでもない。
それらを、きちんと受け手自身が収めるためにはある程度の力量も要求されるから、いくらこちらが頑張っても見逃されてしまうことだってあり得る。しかし、そんなことにめげず目指し続けるしかない。
厳しいのだ。

11月
16
KYU

自分の書いた楽譜が、自分が関わらないところで演奏され、その結果だけを聞く。

たいていの場合、いくつかの場面で「え、そんなこと書いてないはずなのに…」と思うところが出てくる。
また、演奏団体によっては、私自身のイメージとかけ離れた音が出てくる場合もある。

先日数曲の演奏を聴いたのだが、やはりどうも思ったような音は出てこない事が多かったな。
それを聴きながら、まず、「えっ?」と思い、次第に「どうしてかなあ…」と考え、「そうか、楽譜の書き方が悪いんだ」と強く思うことにしたのだ。
とても上手いとされるバンドだから腕はあるはずだもんね。

もともと、ある特殊な場合のために書かれた楽譜の流用なので、ある程度楽譜と演奏のギャップはある事は承知なのだけれど、その音楽的内容を汲み取り「実際に演奏する場合に合わせて解釈し直すことも必要だよな」「でも元譜の音すら出ていない場合もあるしなぁ…」な感じで。
ま、演奏しにくい、とか、意図を読み取りにくいとか、楽譜が悪い事に起因するんだと、自分の勉強にすることにしたんだ。そのおかげで書き直そうと意欲が増えたからそれでOKだ。

もう一つ感じたこと。
自分の指向する音や音楽が、昨日聞いたバンドとは随分違っていることも再確認した。
以前より知ってはいたけれど、よりその傾向が強くなっている。
いや、逆だ。どんどん「普通」のバンドが自分と離れていってしまっているんだ、ということだな。
 

そんな中で、KYUの踊りを見ている人がたまたま近くにいた私に「なんでこの人達はこんなにはじけてるの?楽しそうなの?」って聞いてきた。一番下手側の人達見て。へへ。それどこのバンドだっけ?
「うちの子達もやってたけどさ、どうやってもこんな風に踊れない!」ってさ。

あるバンドはごっそり一列分ほど本番欠席だったみたいだ…!

大変な一日(一部は二日間)だったろうけれど、それぞれ得る物はあったかな。

11月
13
サナギ

小学生の頃、近くに牛糞が積み上げられているところがあって、良くカブトムシの幼虫を捕りに行った。

少し掘ると、出てくるわ、出てくるわ、わんさか幼虫が出てくる。

その頃から、街でカブトムシを売るようになったが、そんな環境にいるんだから、お金出して買うなんて信じられなかった。

時期によっては、幼虫ではなくサナギになっている場合もあった。
これは、だいたい直径が十数センチぐらいの牛糞の塊になっていて、上手に割ると表面が綺麗につるつるになった穴の中で茶色のサナギが胴体をひくひく動かしながらただじっとしているのだった。

乱暴にその塊を割ると、ごく希に中のサナギも一緒に割ってしまうことがあった。
もちろんそうすれば息絶えてしまうのだが…。(可哀想なことをした。)
割れてしまった茶色のからのような物からは、乳白色の体液がどろっと流れ出るだけで、内臓のような物は出てこなかった。
成虫になるために分化した器官がそれぞれだんだん発達していくのではなく、濃縮された体液が全てを含んで、混沌と成熟していくのだ、と、勝手に解釈し、大自然の不思議を感じたものだ。

後に、幼虫の時のそれはいったん分解されて成虫になるために再構成されるんだと言うことを知った。

 

それから、自分の中で何らかの発想が生まれ熟成していく様子を考えるとき、いつもこのカブトムシの体液がイメージされる。
1つ1つのパーツが論理的に完成しそれが集合しさらに大きなユニットとなって…、というより、もっと漠然と何かが始まり、それぞれが見えたり隠れたりしながらそれこそどろどろの乳白色の体液のように渾然一体となり、その混沌がさらに攪拌され、完成を目指して長い時間かけて熟成されていく。そして周知されるときは、蝶が羽化するように一気に劇的に殻を脱いで変態(へんたい、metamorphosis)し度肝を抜く、イメージである。

ただ、それではあまりにも感覚的すぎるので、何とか理論武装しようと躍起になっている自分がいる事も確か。

とにかく、今自分の中には、乳白色のどろっとした体液が混沌としてあり、熟成され、完成されるのをじっと待っているんだ、と感じているということ。さらには、出来上がりを確認できる状態にいつ変態するのかは皆目見当がつかないということ。

劇的な瞬間が来ることを信じてじっと待つしかないのだろう、と腹をくくる。

11月
11
守るべきことなど

自分にとって守るべき大切なものとは何だろう。

一番大切なものは目に見えない。耳に聞こえない。匂いも味もない。もちろんさわれない。いつもそう思っている。
一方では、具体的に守るべきものがあって、その事物を必死に守ろうとするほうがはるかに多い、という事も判っている。

その間でいつも迷っている。私は何を守るべきか。

しかし、これまで通りこれからも「生徒中心主義」でいてほしいと思います。
上を見る先生、自分自身を守る先生、波風を立てたくない先生、あきらめた先生、たくさんいる中で純粋に生徒のことを優先にする、先生として当たり前のことを信念を持って実践する数少ない先生だと思います。そんな先生に出会える生徒は自分も含め、幸せ者です。

だからこそ、「先生」でいてほしいと思います。
〜中略〜
まずは「先生」でいることを第一に考えてください。

過去にこんなメールを頂いたことがある。
(少々省略あり。前段は…、ま、いいや。恥ずかしいなぁ。勝手に引用してゴメンね。)
にもかかわらず現在、期待に応えられていない。

その立場がなかったらやるべき事すらできなくなるでしょ?という警鐘だということも重々承知。
でもね、その立場は私にとって一番に守るべき物とは思えない。それを守るために目に見えない大切な物を見失うと思う。
ただし、それは「私にとって」であり「生徒にとって」ではないかもしれない。だとすると先の引用メールの前段と全く矛盾することになる。

そして、その間でいつも迷っている。私は何を守るべきか。
結局、最終的には自分の感性を信じるしかないと思い、決断し、結果、期待に応えられていない現状がある。

すなわち、引用メールの内容は「そうあるべき、そうありたい」と願うことと裏腹に前段も後段も成立しなくなってしまうのだ。

…いつも迷っている。私は何を守るべきか。
…あぁ未熟なり。

11月
11
不思議な

アクセスがある。
常にここのページを覗きに来る。

お気に入りとかブックマークとかがこのページで、ここから入り、例えば最新の記事に行くとか、次のアクションがあれば何も不思議はないけれど。いつも見るのはここだけみたい。なんか裏技があるのかな。

で、そこ改めて見てみた。
うーん。書いた時の状況や思考は明確に覚えている。あるグループの会話を聞いていてとても異常に感じたことなんだ。
読み返してみて、テレビとかの放送がそれと全く同じ状態なんだと気が付いた。もし沈黙が訪れたら放送事故だもんね。
バラエティとかワイドショーとかは、これでもかといわんばかりの情報量(内容はともかく)を途切れなく出し続ける。受け手はその1つ1つをきちんと受け止めるなんて事はせず、気に留まったキーワードを脈絡なくつまみ食いする。
だから会話はいつまでたってもかみ合わない。そんなかんじ。私には耐えられないことが良くあった。それでも理解しようと…。

そして、最近その感覚を忘れていた、ということも気が付いた。
特に感心するような素晴らしい会話も聞いてないけど、違和感を感じるようなことは無くなったなぁ。
コミュニケーションする力だろうけれど、これがあるのはいたって普通のことだと思うよ。

11月
07
トレーニング

の効果ってのは絶大なんだな。
逃げ出さず自分に負けないトレーニング。
妥協を許さずやり続けるトレーニング。
気の遠くなるような反復練習を繰り返し、ダメ出しにへこたれず延々続けて、いつしか自分の身についた物は決して自分を裏切らない。

いや、気が付いていないかな。考えもつかないだろうと思う。
個人の技量はともかく、アンサンブルの精度は随分高い。「いつの間に?」って感じ。
応えようとしてくれたご褒美だろう。

足りない個人もいるし、技量もおぼつかない事多いけどね。
やらなければならないことは、まだまだ山積している。

何もトレーニングされていなければ到底出来る事ではない。
トレーニングされていたとしても単なる反復だけでは到達しない。
頭で理解できても体が反応しなければ音にあらわれない。

結局、どれだけ頭と体を動かしたか、という結果なのだろう。
そしてきちんと体で覚えたことは、ちょっとやそっとじゃ崩れないんだ、ということがわかった。

夏以降積み上がってきた、というより、夏までに貯めた資産だな、きっと。

今日、久しぶりにTSWのレッスンで音を聴いて感じたこと。
24人であの音を出せるのは、なかなかどうして立派なものだ。
倍の人数いたらもっと…(凄いことになるのに)…。

残念ながらスターはいない。しかし、みんなが1つ1つきちんと輝いて手を取り合っている。
長い年月をかけて積み上げてきた結果だ。

自信を持って。
誇りを持って。
資産を失うな。

11月
06
キャンプ場で

夕食を終え、星を見ながらくつろいでいた。銀河が素晴らしく、綺麗に夏の星座が見えていた。見えすぎてむしろ大三角形は無数の星々に埋もれてわかりづらいくらい。

隣のサイトでは、親戚の集まりか、親しい友達家族か、あるいは会社の懇親旅行か、複数の家族が一緒に楽しんでいた。
そのうち、小学生くらいの女の子と男の人が、寝ころんで星を見だしたようで、会話が聞こえてくる。全く姿は見えないが声だけ聞こえてくる。想像すると、父娘ではなく、普段は会うはずのない二人のような感じがした。

「わぁ、天の川すごーい!」
「あれは、はくちょう座。わかる?」
「うん。」
「あの明るいのはデネブって名前の星なんだよ。」
「知ってるー。習ったぁー。」
「そのデネブの横に北アメリカ星雲っていう赤い星雲があるんだよ。」
「へぇー。見えるの?」
「ううん、写真に撮るとね…」

特に聞き耳立ててたわけじゃないけど、たまに聞こえてくる単語がどんどん展開していくのが面白い。

「ブラックホールっていうのはね…」
「人工衛星ってのはね、ずっと落ち続けて…」
「ロケットの燃料はね…」
「宇宙はどんどん膨張していてね…」

もう20年近く前の夏休みでの話なので、どんなだったか詳しくは忘れてしまったけれど、難しい専門用語が容赦なくどんどん飛び交う興味深い説明だった。

奥只見のファミリーキャンプ場の一角で寝っ転がって星を見ながら、ほろ酔いのオトナと小学生の女の子がする会話じゃないよな、と思いながら、でも、とても知的でなんだか嬉しかった。
夕まずめにルアーで巨大なマス(と思われる)を掛け損なった感触(ブレットンが弧を描いて空中を20mくらい飛んだ!)を悔しく思い出しながら、その悔しさを溶かしてくれるように微笑ましかった。

その女の子、もしかしたら今、宇宙飛行士目指してるかも知れないぞ。

11月
05
ゼロって何?

ある集まりの時。
私の隣の女性(母親)が、食べている夕食の味噌汁をのぞき込んで、就学前くらいの男の子と話をしてる。
「この中にお豆腐いくつある?」
「2つ! (…だったかは定かではない…)」
「じゃ、全部食べちゃうよ。 ほら、いまは幾つある?」
「もうな〜い」
「そうね、それがゼロだよ。」
「ふーん。」
「今日、ここに来るときにゼロってなーに?って聞いてたでしょ?」
「…」その子はもう違うことに気を取られお母さんの話を聞いているのかどうだか…。
 

私の小学生の時の記憶。
小さな子が「0」を問うことにびっくりしたんだろうが、今でもなんだか良く覚えている。
しかし、最近ふと「凄いのは子供ではなく、このお母さんなんだ」と思うようになった。

そのお母さんは、たぶん、ある大きな会社の偉い人の奥さんで、ということは、今はその子供、その会社の偉い人なんだろう、と気が付いたのはずっとずっと後のこと。

子供はいつもそんな疑問を持っている。そして次の瞬間忘れてる。
だから、そのちっぽけなことをちゃんと覚えていて、答えを導き出してやることは簡単ではない。

子供は、きっと疑問を持った瞬間にスイッチが入るんだ。そしてスイッチが入った回路にタイミング良く刺激があるとそれは活き、そうでないとすぐ枯れていくんだ。言うまでもなく、活きた回路が多くできるとその後さらに複雑な回路は出来やすい。
そんなことを身近な者が周りで手助けしているのだから、その多さや偏りによって様々な風土が形作られるのかもね。