11月
03
日常の成立

今まであった物がこの先今まで通りあり続けること。
それは、何の労も無しに成り立つことではない、という事に気が付きたい。

駅で待っていれば、正確な時間に電車はやってきて目的地に運んでくれる。
しかし、もし時間通りに電車が来なければ、たいていの場合「何で?けしからん!」になるだろう。

でもその時に「何故、いつも時間通りに電車が来てくれるか?」を深く考えてみたら良いと思う。
その電車の運転手が居て、雇っている会社があり、運転技術を教える人がいて…。また、電車を作る会社があり、開発する技術が要り、レールを敷く人がいて、保全する人がいて…。電気を作る会社があり、それを配る仕組みがあり、滞ることなく流れ続けている…。
そんな膨大なひとつひとつの事々が「今、目の前に電車が到着する」というたった1つの日常を成立させている。
その膨大な事々のたった1つだけ欠けても、その日常は成り立たないかも知れないのに。
無数の奇跡が重ならない限り、ありふれた日常は成り立たたないのだ。

だからこそ、もし日常が崩れたら、何故か?を正確な視点でしっかり見極めようとする事は大切だろう。原因は一元的ではなく様々なのだから。

日常が失われて、今までと違った日常が取って代わる事で良いと思うのならそれも有り。
それでも「今まで通り何とかしたい」と強く願うのなら、それ相当の(代わりの何かの)手当が必要だ。(もちろんどうやっても不可能な事もある。)

どんな理由だろうと電車が止まったら、多くの人の日常が奪われる。
代替えバス運行が有ったら救われるかもしれないが、それは非日常のことだから、特別に誰かが手当てしなければバスは動かない。

誰が?
何のために?
どうしたら出来る?
果たして可能なのか?
そもそもその必要はあるのか?

それでも誰かが何かをしなければ日常は取り戻せない。
何も思いを馳せず「そのうち誰かが何とかしてくれるさ。」とお気軽に考えても、「つべこべ言わずそれでも何とかしてよ。」と要求だけしていても、物事は決して解決しない。

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我々は舞台の上で非日常を創る。
だからこそ日常の大切さを噛みしめるべきだ。
日常と非日常の間でもがき苦しみ、両方を成り立たせる心づもりを持ち、対処する行動力を持つべきだ。

この世の中、当然あり続けると思っている日常ですら、明日から突然無くなるかも知れないのだから。

11月
02
レントゲン

写真を4枚ほど撮られた。
肩と腰と。

いわゆる50肩といわれるらしいのだけれど、肩(から二の腕にかけて)激痛が走る。両手とも。

50という数字の根拠は何だろう?40肩とも言うらしい。

どうって事もないときもあるけれど、ぐるぐる回す、ねじる、真上にあげる、後ろに回す、などの動作は決してしてはいけない。一瞬爆発したようなとてつもない激痛が走り数分間息が出来ないくらいの痛みに耐えなければならない。寝返り打つのさえ細心の注意がいる。服(特にジャケットのようなはおるもの)を着るのは一大事。

症状から予想はついていたしネットでそれなりの研究もしたので、整形外科医から正式に「はい。50肩です」と告知されてもびっくりはしなかったけれど、「しっかし綺麗な骨ですね、骨そのものは頑丈そうでしかも綺麗で、肩も腰も何の問題もありません」と言われて少々驚いた。
−骨そのものは大丈夫なんだな。−

しかし。
実際、棒を振って、無意識に腕が安全圏を越えて動いてしまい、トンデモもない目に遭うことがちょくちょく出てきて「ちょっとまずいなぁ」と思ってたところにだから、
−出来れば毎日電気当てに来てください。
と言われて、どうするべきか…。

しばらくの間この痛みと付き合わなければならないことは確かなようだ。

追記

こんな事書いていて、さらに。
先ほど階段降りるときに落ちた。靴下が滑った。
ま、最後の2段くらいだったので、落ちたことそのものはどうって事はない。足も腰も、打っても捻ってもない。擦り傷すらない。
しかし体を支えるために両手を後ろ手についた(らしい)。うをぉぉ!両手が抜けたかと思うほど肩に激痛。
そのまま床に転げ回って数分息が出来なかった。

ふー。しばらくしたら何事もなかったかのように今まで通りになった。(こうやってキーボード普通に打てる)
なんだか厄介だなぁ。