小学生の頃、近くに牛糞が積み上げられているところがあって、良くカブトムシの幼虫を捕りに行った。
少し掘ると、出てくるわ、出てくるわ、わんさか幼虫が出てくる。
その頃から、街でカブトムシを売るようになったが、そんな環境にいるんだから、お金出して買うなんて信じられなかった。
時期によっては、幼虫ではなくサナギになっている場合もあった。
これは、だいたい直径が十数センチぐらいの牛糞の塊になっていて、上手に割ると表面が綺麗につるつるになった穴の中で茶色のサナギが胴体をひくひく動かしながらただじっとしているのだった。
乱暴にその塊を割ると、ごく希に中のサナギも一緒に割ってしまうことがあった。
もちろんそうすれば息絶えてしまうのだが…。(可哀想なことをした。)
割れてしまった茶色のからのような物からは、乳白色の体液がどろっと流れ出るだけで、内臓のような物は出てこなかった。
成虫になるために分化した器官がそれぞれだんだん発達していくのではなく、濃縮された体液が全てを含んで、混沌と成熟していくのだ、と、勝手に解釈し、大自然の不思議を感じたものだ。
後に、幼虫の時のそれはいったん分解されて成虫になるために再構成されるんだと言うことを知った。
それから、自分の中で何らかの発想が生まれ熟成していく様子を考えるとき、いつもこのカブトムシの体液がイメージされる。
1つ1つのパーツが論理的に完成しそれが集合しさらに大きなユニットとなって…、というより、もっと漠然と何かが始まり、それぞれが見えたり隠れたりしながらそれこそどろどろの乳白色の体液のように渾然一体となり、その混沌がさらに攪拌され、完成を目指して長い時間かけて熟成されていく。そして周知されるときは、蝶が羽化するように一気に劇的に殻を脱いで変態(へんたい、metamorphosis)し度肝を抜く、イメージである。
ただ、それではあまりにも感覚的すぎるので、何とか理論武装しようと躍起になっている自分がいる事も確か。
とにかく、今自分の中には、乳白色のどろっとした体液が混沌としてあり、熟成され、完成されるのをじっと待っているんだ、と感じているということ。さらには、出来上がりを確認できる状態にいつ変態するのかは皆目見当がつかないということ。
劇的な瞬間が来ることを信じてじっと待つしかないのだろう、と腹をくくる。