パラリンピックという大会がある。
以前、愛知県で行われた第49回国民体育大会(わかしゃち国体)の総合開会式、閉会式での音楽隊の指揮者をした。吹奏楽隊600人、合唱隊600人、以下ファンファーレ隊なども擁した大音楽隊である。(そのときのことはいろいろ面白い話があるが、またそれは別の機会に。)
そしてわかしゃち国体の直後に全国身体障害者スポーツ大会(ゆめぴっく愛知)も二日間にわたって開催された。当然その総合開会式・閉会式も同規模の音楽隊として参加した。
その「ゆめぴっく愛知」の閉会式はとても印象的だった。終了後出場者がどんどん音楽隊の指揮者台の周りに集まってくる。障害者も健常者も役員も同様に。全てが終わった安堵感か。
そして、式典で使用した様々な音楽をアンコールされ、何度もそれに応えた。
感激してなぜだか涙をこぼしながら棒を振った覚えがある。
それまでずっと分刻み秒刻みのスケジュールで動いていた本隊への指示が急に緩くなり、みんな帰ろうとしない。音楽隊も帰ろうとしない。あちこちで記念写真が撮られ、歓声が上がる。
とにかく感激するのだ。何故だったのだろう。
先ほど「パラリンピック」を検索していて、そのヒントを見つけた気がした。
「彼らは、出来ない理由を決して見つけようとはしない。出来る方法を必死になって探す。」
出来ない理由を100見つけても、何も進歩しない。しかし、出来る方法を一つでも見つけたらそこには素晴らしい進歩がある。
オリンピックが終わり、少しずつパラリンピックの特集をTVで見るようになって、先日シッティングスキーが取り上げられていた。
選手も器具開発者も凄まじい執念だ。
また、こんな記事も見つけた。
(出来ればPCで見てください。)
ここには人の底力があると思う。
知らず知らずのうちにその事を感じて心が動くのだろう。
しかも、ここに悲壮感は感じない。
出来る事の喜び、上を目指す幸せが有るだけのように見える。純粋に。
オリンピックでの、フィギュアスケート、モーグル、スピードスケート、カーリング、はたまたハーフパイプ、…どれも何故だかある種の悲壮感が感じられた。余計な物を背負っているような。
オリンピック以上にしっかり見たい。