4月
04
モモ

果物の桃ではない。

ミヒャエル・エンデの同名の作品。日本では児童文学というジャンルに分類されるのかな。
時間泥棒とそれを取り戻そうとするモモのお話。
この辺りの説明が私の印象と一番近いような。
映画化もされている。「はてしない物語」と違い思いのほか原作に忠実だ。といっても限界はあるけどね。

蛇足ながら「ネバーエンディングストーリー」と「はてしない物語」は似て非なる物でしょう。

その中に、急げば急ぐほど遅くなってしまう場面がある。
追っ手に追われ焦って先を急ぐほど追いつかれてしまうのだ。
その時は、逆にゆっくり歩くと良い。ゆっくりになればなるほど先に進む。

==
とても天気が良く、桜満開で、しかも近くの公園の桜祭りイベントで火縄銃の模擬連射が続きそうだったので、避難がてら音響シャイなせろりをドライブに連れ出したのだった。

道すがら、桜も満開だったが桃も満開で見事だった。
で、「桃源郷」って意味は判るけど、桃の字を使うのなんでだっけか?とか、仙人って良いなぁ、とか、とりとめもなく様々なことが頭の中を巡り、ついには、エンデのモモを思い出したのである。

そして、
「自分の中に流れる時間は、どんどん遠ざかっていないだろうか?」
「必死に(身の程忘れ)流れを取り戻そうとしていなかっただろうか?」
と考え、次に、ようやくそんなことに思いを巡らせることが出来る程になってきたかもね、と感じたのだった。

桜は満開。
うじゃうじゃと人間がその花の下に群がってくる。
そして昔聞いた台詞を思い出す。
「桜の花は毎年新品です!」

4月
03
TEAM

の素晴らしさ。

ずっと、私は人に物を頼むのが下手だった。(今でも下手だと思っているけれど…。)
というよりも、人に頼むより自分でやってしまった方が早い、と思うことが多かった。
大概のことをやってしまえる自信もあった。
しかしそれは自分の手に負えない事態が生じるとすぐ放棄してしまう危険性も持ち合わせていた。

高校生を相手にすることが多くなったとき、しかも吹奏楽部という途方もなく作業量が多い活動を始めたとき、出来ないことを放棄することは許されないから、如何にして自分が楽をするかを考えた。
たくさんの仕事をこなすために自分以外の人に動いてもらう他はない。
そうやってみると、人を動かすというのは難しい。物事は思うように進まない。
自分が望む動きをしてもらうためにはあらかじめ「教える」事をしておかなければならないことに気が付いた。

それが苦労の始まりだった。
なぜなら、1つの作業を覚えたらそれでお終いではない。「作業」を教えるだけでは、延々と新しい「作業」を教え続けなければならないから。教えることはねずみ算式に増えていく。

そして行きついたのは、作業を「考えること」を教えることだった。

その根底には、私の師匠のなんてことはない雑談のひと言が大きく存在している。例えば、社会科の授業で「石油生産世界一位の国はどこか?」を覚えさせるのではなく、どうやったらそれを調べられるのか? を教えるべきだ、といったようなことだ。「だってそれは時代が変わればどんどん変わってしまうだろ?古い情報にとらわれて判断を見誤るぞ」

万事解決か、と思ったが現実はそれによりさらに苦悩は増えた。
一挙にハードルが高くなったのだ。「考える」ことの訓練は生半可ではない。しかも世の中の風潮はそれとは違う方向を向いている。
しかし、「教え」「育てる」ことはそういうことなのだ、「生きる力」をつけるとはそういうことなのだ、と年月を重ねる毎に思いが確かになり、以来ずっとそれをやり続けている。

その甲斐あってか、自分以外の人が何を望み、その為に何を為すべきか考え、さらに自分自信も満足できる言動ができるような人材が少なからず育っていった、と密かに自負している。
 

そして今。
そんな人達とTEAMを組める。
なんという信頼感。
心底「任せた!」と言ってしまえるのだ。
だからこそ、思いのまま自由に活躍して欲しい。
それぞれの思い描く理想に向かっていくことが、即ちTEAMの理想に繋がる。

幸せだと思う。
TEAM NGO!

4月
01
4月になった

世の中、様々なことが更新される時期。

さて。私も。
しかし風の吹くまま、気の向くまま。

何処かで行き倒れたらその時はその時。
今までだってその可能性は十分あった。
…夜の東名高速道路で一度も居眠り事故に遭わなかったことは本当に不思議で奇跡だ。…

でも、今私はここにいる。
そして、やりたいこと、やって欲しいといわれること、あるいは、やるなといわれること、を一生懸命やったりやらなかったりする。
たったそれだけのこと、なのだろう。
しかし、たったそれだけのこと、がどれだけ大切なことか。