って何だろう、って考えた。
今、普通である事の価値は随分高いらしい。
しかし、人ってそれぞれ唯一無二だろうが。それぞれが特別な存在ではないのか?
「普通」が大切でないとは決して思わない。
しかし、「普通」というレベルを目指すべき目標にしてしまって良いのだろうか?
そういえば、人と意見が違うことに関して極めて敏感で恐れている、と感じることが良くあった。
「人と違って当然」という、ごく当たり前と思っていることがなかなか伝わらなくて歯がゆい思いを何度もしたな。
「人と同じでなければならない」という強迫観念に支配されているようにしか思えなかった。
ずっと昔、ルーズソックス全盛の頃、
「何故、みんなそんな格好するの?」と聞いたら、
「これは個性の現れです」と答えた人がいた。
「みんな同じ格好してるから、どうしても個性的とは思えないんだけど?」
「いえ、それぞれの履き方に個性があるんです!」
なんだかとってもささやかな個性の感覚にびっくりした覚えがある。
(ルーズでないソックスを履く人に対しては、その個性を認めるのではなく仲間はずれにされてしまうんだけどね。)最大公約数の中にいる安心感なのか。
私は人と違う新しい価値を見いだすことが大切だ、という道を歩いてきた(つもり)。
例えば、ものすごい努力をしモーツァルトそっくりの曲が出来るようになった(…それはそれでものすごいことだと思う…私には出来ない…)としても意味はない。なぜならもう既にモーツァルトは存在してしまっているから。クローンは要らない。目指すべきはモーツァルトを超えること、もしくはモーツァルトとは全く違う価値の創造だろう。
例えば、名演といわれるCDそっくりそのまま演奏が出来たとして、それは「勉強」としてとても大切なことだけれど、自分の表現としてはあまり価値はない。その演奏は敢えて自分である必要がないからね。他の誰でも構わない。(上海では盗作騒ぎが起きてるね。)
だから、個とか個性とかの受け止めがどうやら少し違うのかも、という気がしてくる。
確かに、コストがかかるし、そもそもリスキーだからなぁ。
一方、オンリーワンで在ることの大切さを強調したら、ナンバーワンを目指すことからの逃げだ、と強烈に非難されたこともある。(いや、確かにそれも判るけれど、そういった意味じゃなくて…)と思ったものの、その時はきちんと説明できなかった。
そんな私でも、「普通が目標」という意識はやはり「逃げ」に感じる。
百歩譲って、「『せめて』普通でありたい」、なら理解できると思った。
昨日、TV番組を見ながら考えたこと。