ずっと前から欲しい物があって(それはカメラなんだけど…)、その商品の口コミ掲示板を良く覗く。
そういったネットコミュニティには、つきものの「荒らし」とかが手変え品変え出現する。いつもそんなやりとりも興味深く見ているんだけど、先ほどある書き込みが目に付いた。それは「荒らし」ではなく誠実な書き込みと見た。
良い写真を撮りたいのか、良い画質の写真を撮りたいのかの違いとも言えますね。
一度さらっとスルーして、ん?と思い直しもう一度よく考えた。
この違い、日常のいたる所で出くわすぞ、と。
例えばこんな風に言い換えてみる。
良い音楽をしたいのか、良い音質の音楽をしたいのかの違いとも言えますね。
私自身は間違いなく前者だな。そしてそれは世の中の当然と思っていた。
本質を見極めるとはそういうことだと。
「良い音質」は目的ではなく手段だと。
まず第一義は良い音楽をしたい。もちろんそのためのそれにふさわしい音質は必要である。
しかし、それって、どうも世間一般と違うんだなって思う。
まず、一定の価値観(流行とか、中道とか、視聴率とか、風習とか、…)にはめられた基準(ここでいう画質や音質)があり、その中で活動が行われる。
その一定の価値観から逸脱するものは大概否定される。特に最近は全否定になってしまうことも。(ワールドカップが開催される直前のサッカー日本代表チームの評価のように。)
そのみんなが大切にしている小さな土俵の中でドングリの背比べが始まり、目糞が鼻糞を笑う茶番になる。いや、茶番といっては失礼か。それが心底営みなのだろうから。
イメージする音楽を実現するために必要と思われた音質が世間一般の価値と異なっている場合、ある人はその音質を受け入れられないことは容易に理解できる。しかしその場合、受け入れられない音質に固執してしまうあまりその先にある本来の音楽を見通すことができず、音楽そのもの(発想や過程も含めて)の全否定をしてしまう事が往々にしてあると思うのだ。
もし、音質のみが音楽の優劣を決めるのなら、SPレコードを転写したようなフルトヴェングラーやトスカニーニの演奏は随分価値のない物になる。
声質のみが音楽の優劣を決めるのなら、サッチモのだみ声は声楽的発声とはほど遠いから聴くに値しないことになってしまう。
順序が違うんだ、と思う。
その事はとっても危険なのだ、とも。
良い写真を撮りたいのか、良い画質の写真を撮りたいのかの違いとも言えますね。
「良い写真」ってなんだろう?
そこに行きつくのはとても難しいと思う。
だから、とりあえず「良い画質」にこだわってしまう。
「良い画質」は数値化や可視化あるいは言語化することが簡単だから。
そして、「良い写真」が必ずしも「良い画質」であるとは限らないことを忘れ、「良い画質」こそが「良い写真」の絶対条件になってしまうことは是非とも避けたいと思う。