月別: 2010年12月
季節。
それぞれの団体やグループの、それぞれのアンサンブル演奏を聴く機会が増える。
で、只、音が並んでいるような演奏に出くわすことが多い。(そもそも音がきちんと並んでいないことも多々。)
タテヨコ、ダイナミクスはそれなりに気を付けてる様子。
でもそれだけなんだな。
聴いていてつまらない。大切なものが伝わってこない。
レッスンもぼちぼちと。
継続したレッスンならば、音楽やアンサンブルの仕組みを説明してからようやく本格的に音楽の作り方とかに移行できるのだけれど。
本来前提であるべき音楽やアンサンブルの楽しみを理解させるのに時間がかかる事が多いから、どうしても単発のレッスンだと時間切れ中途半端になってしまう。
そのままコンテスト本番に突入するときっと良い結果にはならないだろう。
そうすると結果に落胆し、また大切なことを見失いそうだ。
このやり方、即効性という意味では失格だとおもう。
確かに、今の世相では流行らないだろうと思う。
しかし一方では、継続したレッスンを通して、少しずつ音楽やアンサンブルの本質を感じながら演奏できるようになった人たちも確実にいる。
テクニックでは未完成でも、始めから終わりまで滞りなくスムーズに運ぶ演奏が出来るようになった人たちもいる。
この感覚、時間と手間はかかるけれど一度覚えたら決して忘れないはず。
そしたらそれが文字通りその人の「力」になるんだけどね。
アンコンに向けて頑張っている人たちがみんながそうやって音楽への感覚を磨く方向を向いたら、もっと居心地が良くなると思うんだけどなぁ。
残念ながら現実は厳しい。
もっと伝えなきゃ、と思い、伝え方難しいなぁ、と思い、なかなか理解してもらえないなぁ、と思い、一筋縄ではいかないなぁ、と弱気になる。
でも、諦めないことにする。
一度熾きた火はなんとか保ち続けよう。
来年も。
コンサート、開演前から行われていた中高生の金管アンサンブルクリニックと彼らの公開リハーサルも全て見させていただいていた。
クリニックは、高校生のバリテューバ4重奏と中学生の金管8重奏。
SBBQの5人は楽器を待たず、言葉や動作で通訳を交えながら、基本的な呼吸の練習方法、演奏者相互のコンタクトの取り方、もちろんバランスやフレージングなど、様々な示唆に富むアドバイスがあった。
その後休憩を挟み、彼ら自身の公開リハーサル。
どんなリハーサルをするのか興味津々だったのだが、実際には曲はほとんど合わせず、小一時間ほど5人揃ってバズィングから始め、基本的なウォームアップに終始した。
それは、自分達のため、というよりは、聴講している中高生のために、「トレーニングとはこうやってするんだよ」と、身をもって示しているようだった。
後々考えて、すごい、と思ったことがある。
その後の本番も含めて、無駄な音を一切聞かなかったことだ。
単純なミストーンはもちろん皆無だが、それ以外でも、例えば、一つのパターンが終わったあとに口をほぐすために出しがちな音や、唾を抜く時に出しがちな音も含めて、試し吹きなど不用意な音は一切無い。
ウォームアップ一番最初のバズィングからアンコールの最後の音まで、発音された音全てが必要だから出された音で、しかも全ての音が間違いなく的確なのだ。
このことはある意味テクニカルな事項かも知れない。
ウォームアップはアメリカンスタイルで、パターンとパターンの間の音を出さずにいる時間ですらきちっとコントロールするとてもシステマチックなもののようだ。
しかし、その裏には、やはりそれだけではない何かの存在はあると確信する。
例えば「発音する音に対する責任感」とか「音への惜しみない愛しみ」とか。
いやいや、そんなお硬いモノではなくもっともっと暖かく深いものなんだ。うーん、私の拙い言葉にすると途端に色あせてしまうのが悔しい。
「完璧な技術を身につけたからそれらが可能になった」のではなく「何かを求めていった結果完璧な技術が身についた」というと伝わるかな。
要は、目指しているものが、「言葉では表せない何か。理屈では説明できない何か。」だからなのだろう。そのためのテクニックは必要だが、しかしテクニックは言葉で表せるし理屈で説明できる。先の言葉からすれば目指すべきはそこではない。
彼らの、テクニックのさらにその先にある「説明できない何か」を求める、という揺るぎない基本姿勢が、エル・システマ数々の奇蹟を生んだのだろう。
そこまで考えてようやく、私のアンコール時の涙の不意打ち、という個人的経験は、そのうちのほんの微かな奇蹟の一つに過ぎないのだろうと考えついた。
昨晩のコンサートでのアンコール1曲目。
不覚にもいきなり涙が滲んだ。
内輪ではない演奏会では何十年ぶりだろうか。
終演後、理由を考えた。
「演奏」や「音」とか、「アンコール演奏する前の挨拶」の言葉などを通してそう感じたのでもないように思う。
自分の心の真芯を「何か」によって直撃されたようだった。
敢えて言葉にするなら「優しさ」「愛おしさ」「思いやり」「感謝」のようなものがホールいっぱいに満ち溢れたような感覚、ということなのか。
その感覚は、特に各プレイヤーが各々ソロを取っている間中、続いたように思う。
今も考えているが、やはりいくら考えてもその答えは良く分からないままだ。
一つだけうっすら判るのは、私がパンフレットのコラムにも書いたアヴレウ博士の言葉、
「(音楽は)言葉では表せない何かを示される。理屈では説明できない何かを示される。」
なのだろうということ。
であるならば、感じるしかない、のだな。
上手く説明できないが、核心はここにある。
を見た。
しかし、本格的な木曽馬牧場のある開田ではなく、近くの都市公園の動物広場だ。
木曽馬は3頭いて、そのうちの一頭をほとんど手の届くところで見入った。
柵が邪魔でなかなか目を合わすことが出来なかったが、じっとこちらを見ていた。
優しい目をしていた。
疑うことなどまるでない、吸い込まれるような澄んだ目だった。
ことのほか毛並みが美しかった。
しばらくじっとしていたのだけれど、急に駆けだし途中でいななきながら反対側に行ってしまった。
向こう側から飼育員が入ってきたからだった。
白毛のポニーが牧場の斜面にいた。
2頭。
地面にごろんごろんしてた。
せろりも良く芝生でやってたっけな。とにかく上機嫌なときだ。
斜面なのに2頭でじゃれ合いながらかなりの速さでかけっこしてその姿が美しかった。
嬉しくてしょうがない、というように感じた。
動物ふれあい広場にウサギが居る一画があった。
腰くらいの高さの柵で囲まれていた。
「ネザーランドドワーフという品種でピーターラビットの絵のモデルになった」
と説明書きを読みながら観察していたら、三、四歳の男の子がやってきて金網越しに、
「うさぎしゃん、うさぎしゃん、…」とつぶやきながらにこにこしてる。
係のおじさんがすっと登場して
「ウサギ、触ってみようか」
と1羽のウサギを台の上に上げて、その男の子に触れるようにしてくれた。
ウサギはうずくまって、男の子がそぉっと触っても静かにしている。
本当に嬉しそうな顔をして、後ろのお母さんに振り返りながら、それでも
「うさぎしゃん、うさぎしゃん、…」とつぶやきながら撫でている。
お母さんも一緒に撫でながら、男の子の目はまったくもって優しい目だった。
この毛並みを触った感覚、一生忘れないのだろうな。
見ていたら、なんだか涙が出てきた。
少し離れたところに珍しい鶴の檻があった。
2羽いた。水の中のエサをしきりについばんでいた。
驚いたことに檻の中にはラジカセが置いてあってずっと大きな音でラジオがかかっていた。
そうか。
少々見物人が騒々しくてもストレス溜まらないように騒音に慣らすために一日中鳴らしているんだな。
可哀想な気もするけれど、それで慣れたらあんがい大丈夫なのかも知れない。
動物って結構適応能力あるんだ。
烏骨鶏が盛んに鳴いている。
「コケコッコーーー」
音を伸ばした最後にきまって同じ方向に首をかしげてこちらを見る。
「これで良かったですか?」
といちいち聞かれているようだ。
こちらも、同じタイミングで首をかしげられるまで何度もくり返してしまった。
ふふふ。
いくつかの檻の前、たとえば、ベンガルトラとかには、
「老衰のため○月○日に亡くなりました。今までかわいがっていただきありがとうございました。」
と張り紙がしてあった。
このご時世、新しい動物を入れるのは難しいのだなと思いつつ、小さな小さな動物公園だけど、心を込めて動物と関わっているようなそんな気がした。
天気良く、のどかな午後だった。
いろんなことがとってもちっぽけなことに思えてしまうような、暖かい出来事がいくつか重なった。
あれ、ヒトだって動物だよな。
ご紹介します。
SIMON BOLIVAR BRASS QUINTET
(シモン・ボリバル・ブラス・クインテット)
2010年12月18日 16:30開場 17:00開演
長久手町文化の家 森のホール
前売り 一般¥3000 学生¥1500
問い合わせ先 長久手町文化の家
当日本番に先立って、メンバーによる地元中学や高校の金管アンサンブルの公開レッスン、およびリハーサルの公開もあります。
団体でお申し込みできると思います。長久手町文化の家に直接お問い合わせ下さい。
ここに少しだけ演奏の動画(mp4 4.9M程度)あります。携帯電話でも視聴できるとおもいます。
是非どうぞ。