コンサート、開演前から行われていた中高生の金管アンサンブルクリニックと彼らの公開リハーサルも全て見させていただいていた。
クリニックは、高校生のバリテューバ4重奏と中学生の金管8重奏。
SBBQの5人は楽器を待たず、言葉や動作で通訳を交えながら、基本的な呼吸の練習方法、演奏者相互のコンタクトの取り方、もちろんバランスやフレージングなど、様々な示唆に富むアドバイスがあった。
その後休憩を挟み、彼ら自身の公開リハーサル。
どんなリハーサルをするのか興味津々だったのだが、実際には曲はほとんど合わせず、小一時間ほど5人揃ってバズィングから始め、基本的なウォームアップに終始した。
それは、自分達のため、というよりは、聴講している中高生のために、「トレーニングとはこうやってするんだよ」と、身をもって示しているようだった。
後々考えて、すごい、と思ったことがある。
その後の本番も含めて、無駄な音を一切聞かなかったことだ。
単純なミストーンはもちろん皆無だが、それ以外でも、例えば、一つのパターンが終わったあとに口をほぐすために出しがちな音や、唾を抜く時に出しがちな音も含めて、試し吹きなど不用意な音は一切無い。
ウォームアップ一番最初のバズィングからアンコールの最後の音まで、発音された音全てが必要だから出された音で、しかも全ての音が間違いなく的確なのだ。
このことはある意味テクニカルな事項かも知れない。
ウォームアップはアメリカンスタイルで、パターンとパターンの間の音を出さずにいる時間ですらきちっとコントロールするとてもシステマチックなもののようだ。
しかし、その裏には、やはりそれだけではない何かの存在はあると確信する。
例えば「発音する音に対する責任感」とか「音への惜しみない愛しみ」とか。
いやいや、そんなお硬いモノではなくもっともっと暖かく深いものなんだ。うーん、私の拙い言葉にすると途端に色あせてしまうのが悔しい。
「完璧な技術を身につけたからそれらが可能になった」のではなく「何かを求めていった結果完璧な技術が身についた」というと伝わるかな。
要は、目指しているものが、「言葉では表せない何か。理屈では説明できない何か。」だからなのだろう。そのためのテクニックは必要だが、しかしテクニックは言葉で表せるし理屈で説明できる。先の言葉からすれば目指すべきはそこではない。
彼らの、テクニックのさらにその先にある「説明できない何か」を求める、という揺るぎない基本姿勢が、エル・システマ数々の奇蹟を生んだのだろう。
そこまで考えてようやく、私のアンコール時の涙の不意打ち、という個人的経験は、そのうちのほんの微かな奇蹟の一つに過ぎないのだろうと考えついた。