11月
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朝日新聞(2012年11月1日)に第60回全日本吹奏楽コンクールの1ページ特集があった。前日に名古屋国際会議場で行われた中学の部に関わる特集だ。
(記事の内容からこの辺りの地方記事ではなく全国版だと思ったがどうだろうか。)
さて、その記事の中央の囲みに「総評」という見出しで各演奏に対して評論が載っていた。その最後の一文。
とある審査員が以前、こうこぼしたことがある。「一番感動的な演奏をしたのに、技術が弱くて銅賞になった学校がある。音楽の審査って矛盾だらけだよね」。名旋律に心震わせたり、美しいハーモニーの一翼を担ったり。技術を克服する快感以上に、音楽ならではのそうした幸福こそを、子供たちの感性に刻みたい。勝つためではなく、育てるための大会であり続けるためにも。
なぜ、コンクールの総評(各学校の演奏評価を並べたあと)の最後に字数を割いてこんな一文を載せたのか気になった。
吹奏楽コンクールに関して単純ではない何かを感じたからこそ、全国版の記事であるにもかかわらず(であるからこそ!?)紙面を割いたのではないかと邪推してしまうぞ。
「金賞受賞」という非日常の感動は「到達の評価」としてとても重要だが、それと等価もしくはそれ以上に(特に若い世代の人達にとって)重要なのは、素晴らしい音楽とともにある「日常の創出」だと思っている私は、とても近い匂いをこの一文に感じたので少々面食らったというのが正直なところ。
本日は高校の部だったと思う。
どの団体も気の遠くなるような練習を重ねてここに至っているだろうから、素晴らしい演奏だったことは間違いないだろうが、さらには音楽ならではの幸福を感性に刻んだのだろうか。