FB絡みでなかなか興味深い文章に出会うことが多くなった。
しかし、FBへの投稿はアカウントがない(出先でログインするのもメンドクサイ…)と見ることは出来ないし、日にちの経過とともにその投稿はどんどん埋没しすぐ行方不明になっちゃうんだな。
先日見つけたのはこれ。
まえがき 「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。自分より少しはバカな人(学生たち)を相手に教え続けるからだ。だから少しはバカな人はどんどん…
芦田 宏直さんの投稿 2013年3月14日木曜日
いきなり
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「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。
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と始まる。まったくその通り!と自戒を込めて思う。
他も少し見てみたけど、共感する部分が多そうだからもう少し深くさまよってみよう。FB見られないときのために前半部分をここに覚え書きしておく。
芦田 宏直
まえがき
「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。
先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。
自分より少しはバカな人(学生たち)を相手に教え続けるからだ。だから少しはバカな人はどんどん賢くなっていくけれど、自分自身はバカなままにとどまる。自分のバカが学生にばれそうなときに、学年が変わり、入学生と卒業生が変わり、学生は消えていく。先生のバカは多くても4年持てばいいわけだ。先生のバカはそうやって二重に守られている。
百歩譲って、“教え方”はどんどん賢くなっていくと言ったところで、知っている内容が変わらない点では一緒のことだ。教え方が変わることによって教える内容も変わるともっともそうなことを言う人もいるが、それは“教え方”という言葉の乱用に過ぎない。
「教育」というのは、“教え方”の研究(文科省は「教育研究」という便利な言葉をよく使うが)でもって教える内容を棚に上げるシステムだと思った方がいい。「先生」と言われる以上は、それくらいの恥を覚悟しないと。
昔、トロツキーは、ロシア共産党はすべてを変えたが唯一変わらなかったものは、そのロシア共産党自身だと言ったことがある(埴谷雄高は何度もこの言葉を紹介していた)。前衛主義や啓蒙主義が破綻するのは、自分が考えていることについていつも「知ったかぶり」をするからである。
前衛主義や啓蒙主義の本性はいつも軽薄で保守的なものにすぎない。映画『ミッドナイト・イン・パリ』に嘲笑的に出てくる大学教授やアメリカ文化もそれと似たところがあるのかもしれない。
ラテン語の格言でDocendo discimus(ドケンドーディスキムス)という言葉がある。「教えることによって学ぶ」という意味だが、これは『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。留保なく教えることができるときにこそ、〈教育〉と〈研究〉は重なることが可能になる。
「教えることによって学ぶ」とは、教えることによって自分を空っぽにするほどまでに最高判断で語りなさい、学ぶ者自身が一から学び直さなくてはならないまでに教えなさいということだ。
私が大学の最初の教壇に立ったのは400名の受講者のいる階段教室だったが、一コマ目で話すことが尽きてしまったことがある(もちろん目一杯、最高判断=最高認識で話そうと思ったためだが)。そのとき私は、10年以上(たかが10年程度という意味でもあるが)哲学の勉強に集中してきた私のストックの貧弱さに自己嫌悪しきりだった。
トークというのは、研究者にとって通俗の極みのようなところがあるが(そんなものは政治家にでも任せておけというように)、時として書き言葉よりははるかに圧縮率が高いことがある。500枚の論文の内容も90分のトークで語り尽くせることがあるように。書き言葉は、ストックを積み重ねてどんどん観念的、体系的になってしまうが、トークは一言で認識を地べたに引きずり落とすことがあるのだ。若輩者の私にとってストックが足りないということはもちろんことのことだが、トークの解体力というのは、とてつもなく私自身の「学ぶ」姿勢を揺さぶり続けたと言える。
後略
後略の部分(こちらが主体だと…)も、とても興味深い。