月別: 2013年7月
怒濤の7月が一区切りついた感じ。大変だったなぁ。(この後はまた別の意味で大変だ。)
嫌いだ嫌いだ、と言いながらも、吹奏楽をやるからにはコンクールを避けて通るわけにはいかなくて結局どっぷり浸かっている。そして見誤る。なんだかなぁ…。
今年は、コンクールに向けての練習や本番で起こりうるアクシデントやトラブルの続出だった。良いことも悪いことも。
一つの団体で色々起こっているわけではないけれど、私と何らか関わりのあるそれぞれの団体で次々と起こるから、自分が疫病神だったのではないか、と思い始めている。
部活動としての崩壊、練習時の内容(これはまさに自分の責任部分)、本番時の大きなミス、タイムオーバー、コンクール規定違反、審査員として得点化することの出来ない評価の悩み、自分達が感じる演奏の出来と実際の評価の乖離、などなど。細かいことを上げればまだまだキリが無く。
どれも現実。だからこそ、その中で一つ一つ出来ることを積み上げていくしかないのだろう。
でもやっぱりどうしても、「金」「銀」「銅」「代表」だけでは計りきれない音楽的充実度があるということは強調したい。いや、百歩譲って「活動的充実度」でも良い。
学校吹奏楽は「人を育てる」ことが第一義で、それを楽器の技術習熟度や音楽の完成度を通して評価していくべきだと私は思っている。巷でよく聞かれる「あそこから来た生徒は確かに上手いけど高校では全然続けられないんだよな。どうやらどこ行っても同じ。」みたいになっちゃうのは成果主義に傾きすぎて大切なことを忘れちゃったかぁ、なんて思うわけ。
とはいっても吹奏楽コンクールは音楽演奏のコンクールだから本番での出来が成績順位に直結するのは当然だし、努力の結果目に見える成果や評価が欲しいのも当然だ。そのバンドの背景を演奏から明確に聴き取って点数化することは難しいから、出てきた「音」が最重要であることには間違いない。
しかし。
例えばこんな例。
審査した大会で、ティンパニ4発を横一列に並べている団体があった。演奏方法はマリンバのようにサイドステップを踏みながら、しかもヘッドの真ん中を叩いていた。それではきっと難しいだろうなぁ。他の楽器も同様な事がたくさん見受けられたが、中にはどうやったらそんなに器用に吹けるの、といったような音も出てくる。が、全体の演奏クオリティは決して良くない。いや、はっきり言って悪い。したがって評価としてはどうしても高い点は付けられない。
でもね。そこで演奏している人達の情熱は感じるのですよ。きわめて演奏しにくい方法でそれだけ出来るようになるには大変だったろうな、と。ただ、正しいとされている演奏の仕方を知らなかっただけ。今の世の中、手を伸ばせば正しい情報なんてすぐ手に入れられるからそれこそ努力不足だ、といってしまうことも簡単だけど、言い捨てて「はい、おしまい」ではあまりにも無責任だと。
何より、どう考えても正しくない情報の元で、一生懸命やっている生徒達がそれに気付いたときの落胆を思うと、いまのその情熱だけでも評価してあげたいなぁ、と思うのだが、結局「講評」という点数化できない曖昧なところでフォローするしかない。
例えばこんな例。
長い時間かけて少しずつバンドの状況が良くなってきた。人数も増えメンバー相互の関係がとても良くなって、それに伴って練習の仕方や運営の仕方など高校生としての自主活動が充分成り立っていく良い流れにあった。楽器の技術はまだまだ発展途上だが、たまにとても良い音がして相互の関係が見える音楽的なアンサンブルが出来るようになった。で、結果は「えー、どうしてそうなっちゃうの?」と言いたくなる低い評価。出てきた音の評価だけだとしても私には妥当だとは決して思えないのだが、コンクールである以上それは致し方ない。色々な考え方がある中での審査なのだから。しかしそうなると生徒達は今までやってきた努力を全面否定されたようなとらえ方をしがちだ。音楽的な思考とその表出方法を学び拙いながら表現という領域にたどり着こうとしていた諸君が「認められなかったのだ」とそのプロセスすら自己否定をし始めたとしたらこれほど残念なことはない。
だからこそ「音」の渦から「音楽」をきちんと嗅ぎ分ける力が必要なのだが、私自身全然力及ばずであった。
それは、次々と出てくる結果でわかるはずなのだろうが、始めは、なぜそうなるのか良く判らなかった。
そんな折、あるJAZZユニットを知る。私の中学時の後輩絡みなのだが『中3の姉と小4の弟による小さなJazzユニット「サファリパークDuo」』のことだ。
ユニットの説明といくつか紹介されている演奏動画を見ているうちに自分の中で何かが弾けた。
「自分は大切なものを忘れていた!」
そう、コンクールの魔物に振り回され大切なものを見失ったまま臨んだ当然の帰結としてコンクールの結果が返ってきたのだ。
偉そうなこと言いながら結局「金」「銀」「銅」に振り回されていたんだ。
なんということだ。
もう一度最初からやり直しだな。みんな本当にゴメン。
事態に遭遇している。
うん、やはり凄まじいのだと思う。
あまり状況が把握できなかった段階で関わり、ある程度予想はしていたものの知れば知るほど「なにこれ!?」である。
詳細を書きたいと思うのだが、それはもう少し後になるかと。
じっくり書く必要のある内容だと思い、しかし今は連日「ピッチィーッ!」とか「合わせてー!」とか「聞けよっ!」とか「感じろぉーっ!」とかで、思いのほか疲れる。やってる最中はみんな素晴らしく集中してるし疲労感なんて全く感じないけれど、終わった途端、へなへなへなぁーと床に座り込んでしまうくらい。そんな時でも私自身はすこぶる充実してる。
ただ、これだけは今すぐにでも言いたい。
学校吹奏楽は良くも悪くも「教育活動の一環」。そこで体験し感じ身体に浸みたことは一生持って歩く。一生影響する。その大切な始めの瞬間に立ち会うのだから。
全ての吹奏楽部員が音楽の専門家を目指しているわけではない。むしろ目指す人はほんの僅かな一部だろう。しかも、そんな人は将来もっと深く音楽を勉強する機会を持つだろうから、少々の事があっても後々取り返しがきく。
だからこそ、学校吹奏楽の場ではきちんと深い音楽を知らしめ生きる糧としての豊かさを伝えるべきだと思う。アマチュアだからテキトーでよいのではなく、アマチュアだからこそきちんとした物を見せなければ!
そして、それが出来るはずの専門性の高い人達が、「たかが吹奏楽」「たかがアマチュア」と軽く見るのではなく、楽器の奏法やコンクール対策をさらっと示して「出来る出来ないはあなた達の能力次第」で終わってしまうことなく、奏法技術にしろ音楽性にしろ、じっくり「育てる」指向性を持ち、楽器を手にして目を輝かせている生徒達が一生音楽を好きでいてくれるよう真剣に相対するべきなのだと思う。
様々な難しい状況が背景にある事は承知の上。
でも次を育てなければ全てが先細りだ。