「吹奏楽好きじゃないと思ってました。」
「吹奏楽を嫌々やってる感、ありありでした。」
と、複数の人から別々に言われた。
もう20年近く以前の事なんだけど、みんなそんな風に思っていたなんて不覚にも今まで知らなかったなぁ。
吹奏楽という編成の持つダイナミックな表現力や繊細さ、どんな(音楽的)場面にでも対応できる柔軟さは、他に類を見ないと思っている。しかも演奏することへの敷居は低くアマチュア参加の扉は常に広く開かれている。
吹奏楽の可能性はあらゆる方向へ無限だと思う。その思いは今でも増大し続けている。
にもかかわらず、吹奏楽を狭い世界に閉じこめて重箱の隅を突きあっている世界がどうしても苦手なだけなんだ。
しかもとても排他的な事が多いから外から関わろうとする人は少なく、2重にその世界は守られている。
でもね、改めて言うけど吹奏楽そのものはやっぱり大好きなんだよ。
特に吹奏楽を一生懸命やっている若い人達を応援したい。
応援したいが、決して「やらされている状態」にはしたくない。ここが私の肝なんだな。
丁寧に説明してその通りにやれさえすればよい世界では結果が出るのは早いだろうが、説明が無くなればいずれ自分ではどうしたらよいか判らなくなる時が来る。自分で考える力を鍛えることが難しいからだと思う。
応援するということは代わりに「してあげること」ではなく自力で考え出来るように「支援」することで、さらに「支援」とは暖かく手をさしのべることだけではないと考えている。
「そんなこと自分で考えろ!」と冷たく言い捨てられた人達は多いと思う。
出来ていないことを「出来ていない!」と不機嫌に言い続けたし。
だから、私が吹奏楽を「好きじゃない…」「嫌々やってる感…」と感じてしまったのもしょうがないのかな。
特に若い世代ではその後どんどん自分の世界を築いて行くのだから、へこたれる事無く歩いていける力を付けて欲しいという思いからの「自分で考えろ!」だったんだけどね…。
でも、そんなことは今となってはどうでも良い。
なぜなら、その後の皆と話しをしていて「ちゃんと自分の足で歩いてきてる。凄いなぁ!」と思うからだ。限られた時間の中でそれぞれ充分にお話しできたとは必ずしも言えないけれど、きちんと自分自身を中心に据えて日々過ごしていることがとても良く伝わってくる。もちろん上手くいっていることだけじゃないだろう。画に描いたようなサクセスストーリーだけが生きることではあるまい。苦しいことも悩むことも自分自身の中で消化しようとしてる。それが私には「生きている」「生きようとしている」事を感じて心から嬉しい。
私のなかには「音楽とは生きることだ。生きる喜びだ。死を目前にして判った。」という師匠の言葉がいつもある。
WIND MESSAGE 2013 SUMMER