以下は、本日の ENSEMBLE SPIRITUS というバンドの演奏会で、パンフレットに載せた一文。
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音の向こう側
「三角形な感じの音にしてみてよ。」
「お湯入れてから30分も経ってしまったカップラーメンのように手を叩いてみましょう。準備はいい?ではそれを食べる時の気持ちで、さん、はい!」
我が師、兼田敏先生のレッスンや講演、バンド指導ではこの類の話は連発した。単に「〜のように」という指示にとどまらず、面白おかしいエピソードを混ぜながら話しが進んで行くのでいつに間にかその独特な世界観に引きずりこまれて行く。私はそれが大好きだった。
傑作だったのはこれ。
「こんどは色を白くしてみよう」
「あ、はい。しろですね。少し待ってください…。うーん…。」
「…。さあ、やってみて。」
の後、シンバルを一発叩き、しかし即座に止めて、
「すいません!間違えましたっ!ごめんなさいっ!」
と彼女は叫んだのだった。誰も「間違えた」なんて判らないのに。公開レッスン会場は一気に笑いの渦。自分の想いと全く違った音が出ちゃったんだろうな。
そんな訳だから、私もついつい長々とそのような話をしてしまうのだが、最近、初顔合わせのバンドレッスンでそれをやると違和感を感じるようになってきた。
「で、それが何なの?」「結局どうすればいいんですか?」な、ぽかんとした顔に出くわすことが増えたように思うのだ。
先日、バンド絡みの若い人たちと「波間の昆布」(…バンド指導で度々話す内容…。残念ながら詳細は割愛…。)が話題になった。そして「あの話は意外に敷居が高いです」と言われた。
愕然とした。音楽におけるそれぞれの役割とその感じ方について上手く言い当てていると自分でお気に入りの話だったし、「とっても良くわかります」「何だか妙に全てが納得出来るようです」などの感想も多く聞いているので、ショックは大きい。
私の、「音」や「音楽」とイメージとの関係が、突拍子もなくあまりにもかけ離れていて、かえってイメージが湧きにくいのだろうか。
音楽によるイメージの深さが、少なくとも私と、「波間の昆布」の話を敷居が高いと感じる人たちとは、かなり異なっているのだと急激に不安になったりした。
「テンポ60、一点イの全音符二つと二分音符のタイ、ダイナミクスはmp、発想記号としてespressivoと書かれている」ような楽譜について「440Hzの音が50dbの音圧でしかし多少の音程や音色や音圧の変化を伴いながら10秒間発生すること(その楽器の「良いとされる音色」で)」のようであるのなら、それはただの「音」に過ぎないのだと思う。(並外れて優れた「音」ならば、それだけで心が動く事も有るだろうが…。)
その音に「蛇に呑み込まれかけた蛙がまだ飲まれていない足をぴくつかせながらもがいている様子」だったり「今まさに夕日が水平線に隠れ、真っ赤だった空と海が急激に群青色に染まり変わっていく情景」だったり「強く挟むと潰れてしまうのでそうっと、しかし早くその美味しさに感動したい一心でゴマ豆腐を落とさないよう箸で口に運ぶ期待感」だったり、こんな私の陳腐な表現ではなく、本来言葉で表せないもっと様々なイマジネーションを潜ませたり膨らませたりする事が音楽なのではないのか。そのイマジネーション活動こそが音楽の神髄ではないのか。
「良い音色だなぁ」「美しい音の並びだなぁ」にとどまらず、その発せられた音を仲介として演奏する人と聴く人が様々な想いを馳せ合う。
重要なことは、その想いには全く実体が無い、ということだ。微振動すらない。全てがそれぞれの人の頭の中だ。自分以外の誰も覗き見することが出来ない唯一無二なイマジネーション。それを脳科学の世界では「クオリア」と呼ぶらしい…。すなわち「心」。
今、私は、「音楽」とはその「心」を「音」によって顕在化させ豊かにすることなのだ、とようやく実感を持てるようになってきた。
余談ながら、現代科学ではクオリアを、随伴現象として出来れば無いものにしたいらしい。科学の対象は「計量できる経験」に絞られて、「心」が絡むとたちどころに客観的検証から外される。以前「教育の範疇で優しい行為をさせることは出来るが、優しい心の持ち主にすることは不可能である」を読んで途方もない絶望感を感じたのを思い出し、「いや、ちょっと待てよ。音楽では可能なはずだ。私はその実践をずっとしてきたつもりだし、関わってきた多くの人達がその証明をしてくれる。絶対諦めてはいけない!」と密かに誓った事も決して忘れない。
冒頭のエピソードは、出てくる音のイメージを豊富にさせる手段だけではなかったのだ。音の向こう側にあるイマジネーション「クオリア」を育てていたのだ。つまり現代科学では困難な「心を豊かにする」実践がそこにあり、確かに私はそれで育てられていた。
これこそ音楽の意義だ。
音の向こう側にこそ音楽が存在する事をさらに伝えていくことが「音楽とはなぁ、生きることなんだ…。」と遺して逝った我が師への恩返しでもある。
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