10月
31
リサイクルトナー

レーザープリンター用にリサイクルトナーを利用する。
購入時に同封されてくる返送用(着払い)伝票で使用済みトナーカートリッジを送り返す。
この仕組み、なかなか気に入っていて随分以前から使っている。新品の半値以下。
最近さらに、この回収の仕組みをもう少し深く知ることがあってなんだか、身近に感じていた。

先日二つの使用済みトナーカートリッジを送ろうと伝票を確認すると、送り先が数種類あることに気が付いた。
一度にたくさん購入したりするので、その返送用伝票が余ってきていたのだ。
販売店はたくさんあるのだが、そのどれも同じ宛先(数種類)の伝票が入っている。
今回はその中の(たぶん一番)古いヤツから使ってみようと、八王子のトナー回収センター行きの伝票を使用した。
よく知っているのもあったが今回は使わなかった。

数日経ち、連絡があった。
「宛先が転居先不明です。返送して良いですか?」
古い伝票だったからなぁ、しょうがないかなぁ、と深く考えずにそうしてください、と応えた。

数日経って、帰ってきた。
そして、着払い料金払わされた。¥1088×2。

うっ!なんで?

返送しますか?の問い合わせの時に着払いのことは一切何も言ってなかったぞ。
持ってきた運送屋はひたすら、「決まりですので」の一点張り。

処分したかった使用済みトナーはまた手元に戻ってきて、しかも¥2176払わされた。
通常の荷物送付ならその成り行きは当然と思われるが、今回の場合、送り主と受け手の関係が明らかに違う。購入時に入っていた伝票で全く疑いもせず送り返した。それだけだ。
ただ少々伝票が古かったのだとは思う。

回収センターが転居してしまったのがそもそもの原因だろうが、回収の費用(着払い分)はきっとリサイクルトナーの購入価格に既に含まれていると思うから、どうにも納得がいかない。

世の中にあるトナーカートリッジ回収センターが無くなるはずはないのだが。
(少なくとも行き着いた先のその隣のエリアでは運送業者が回収代行していることを確認できた。)

同じようなことはきっと私だけではないだろう。
ユーザー目線が無いぞ、回収代行業者。
(担当者の資質ではなく企業全体の問題ではないのかなぁ。届かなかった、というだけではない、いくつかの問題を含んでいると思う。)

古い伝票使わずに、確実に届くことを知っている伝票(この行き先はすぐ近く…)を使うべきだった、と後悔しきり。

10月
18
楽しさ

「楽しければいいじゃん」と聞くと「うーん。それは少し違うんだよなぁ。」と言ってしまうことがある。それは「その瞬間楽しくさえあれば他は何でも良いんだ」という意味にとれる時だな。
逆に、「楽しさを求めるなんて甘い甘い!」な雰囲気を感じるときもあるが、やはり「うーん。それは少し違うんだよなぁ。」と言ってしまうことがある。「では、何のためにやってるの?そんな苦しいこと。」って思っちゃう。

だから、「えっ?じゃあどっちなのさ?」と思われることは多いだろうな。
そして、それを簡単な言葉で説明できず、なかなか難しいことだとずっと感じていた。

技術を「楽しさ」だけで論じるつもりはない。
〜中略〜
しかし、それでもやはり根底にあるのは、楽しさなのである。これを感じない人は技術者にはなれない、と僕は考えている。どんなに腕が良くても、である。それは、この得体の知れない楽しさだけが、技術というものへ向かう姿勢を長時間持続させるからだ。

創るセンス 工作の思考 / 森 博嗣 著 / 集英社新書 より

 # 森 博嗣という人は以前ここで書いたスカイ・クロラの作者。名古屋大学工学部の助教授だった方で、小説だけでなくここで紹介するような新書も複数ある。

「楽しさ」と「厳しさ」の同居を良く言い表しているな、と感じたので、覚え書き。
タマゴが先かニワトリが先かの議論に似ているけれど、私はほんの少しだけ「楽しさ」の方が先かなと思うわけで、それをうまく言い当ててる。

もう一つ同じ本から。

優れた技術者とは、知識が豊富なのではなく、ものの道理を知っている人のことだ。どうも、現代は本当に懇切丁寧なマニュアル社会になった。言葉が多すぎる(情報過多だ)から、言葉に埋もれてしまうのだと思う。

ふむふむ。

10月
14
ステマ

職業柄、ステマって聞くとどうしても「ステージマネージャー」を連想してしまうが、違う意味があるようで、「ステルスマーケティング」の事でもあるらしい。

ステルスマーケティングとは、それが宣伝であると消費者に気付かれないような宣伝行為。
口コミサイトなどで(広告代理店が?雇われた人が?)一般消費者を装い有利な(あるいは不利な)口コミや意見を書いたり、特定の企業などから報酬をもらっていることを明記せず自分のブログに企業や製品の評価記事を書くこと。

例えばウィキペディア参照

確かに、以前からその存在には気が付いていて、ネットさまよいながら一つ一つの記事を読むときに、必ず脳内フィルターにかけているつもりだ。

だが、確証がある訳でもなく心許ない。それらステマ記事と誠意ある主張との区別がなかなか付きにくいから、判断に困ることが増えてきた。
情報の信憑性を得るために(その虚偽を指摘するために)「ソースはどこだ?」が幅を効かせているが、そのソースでさえ実はステマかも知れない、さらにはその指摘ですらステマかも知れない、という疑心暗鬼はぬぐい去れない。そして、どの立ち位置にしても全く同じ事がいえる。もしかしたらステマ同士の応酬戦かも知れないのだ。(騒げば騒ぐほど、当然、ステマではない便乗組がわんさか湧いて出る。「炎上」というヤツ。もちろん首謀者はそれを狙っているのだろうが。ネチケの基本「スルー」はやはり難しいのだ。)
 

でもちょっと待った。これって、企業や商品の宣伝活動だけか?
世の中には、もっと巧妙で大がかりなステマ=情報操作が存在してるんじゃない?

たいした事件でもないのにあたかも大事件のように大々的に広め同時期に起こっているもっと重要な事件を陰に押しやったり、あたかも世論の大部分がそうであるようにいたるところに絨毯爆撃していく論調であったり…。

良い意味でも悪い意味でも、(絶大な)効果があるんだから、世の中動かしたい人は当然それを利用するだろうね。

何か、世の中の大きな曲がり角に直面しているような気がする。
自分に出来ることは、溢れる情報の中から正確なものをきちんと見極めようとすることしか無いんだろうな。

10月
11
ストライクゾーン

FB上で、いつも気になっている方の連続投稿なのだが、私の環境ではどうしても記事が順序良く並ばないので、取り出して並べ直した。

原文が出てきた。リンクしておきます。 訂正加筆されてますね。2014/10/12]

きちんと最初から読んでみて、なかなか興味深い。
基本とは何か、教育機関で教えるべき事とは何か、こういった視点はとても大切だと思う。
自分の身の回りに当てはめてみて、いちいちなるほどと頷く。
特に11段とか21段とか22段とか。
最終段の「半年か1,2年も経てば摩滅する」は、バンド(吹奏楽)経験者の燃え尽き症候群と似ている。

1. 少し時間が経ったが、この間、某調理専門学校の自己点検評価委員会に参加して、久しぶりに興奮する議論があった。

2. 実務の現場では、たとえば、卵一つにしても、学内実習のように新鮮な卵ばかりが使えるわけではない、様々な理由で鮮度の落ちた卵を使わざるを得ない場合もある。

3. そうすると、ある意味、理想的な環境で学んできた学生の料理の技術がたちまち頓挫する場面も多々出てくる。

4. いつも、?上級?の食材で学ぶのではなく、?中級??下級?の食材や環境で学ぶことが職業教育本来の実践的な教育ではないのか。

5. そうでないと、就職した途端、理想と現実とのギャップで、学生達はショックを受け、自分の学んだ技術を発揮する前に、リタイヤしてしまう。昨今の新卒学生離職者の多さも、そのあたりに原因があるのではないか。

6. (この段落は欠落?)

6.  (後日発見)卵の鮮度を変えた実習授業、実務の現場の、食材を含めた環境を意識した実習こそが、専門学校の職業教育には必要なような気がする、という指摘だ。

7. これは、某調理専門学校の教員の意見ではなく、業界現場の外部委員の指摘だった。

8. これに対して、某調理専門学校の教員側の意見は、講義の中ではそういったことは教えているが、実習ではそういった実習をわざわざ行うということはできていない。今後考えてみたい、ということだった。

9. この間の、某調理専門学校の自己点検評価委員会の議論は、このやりとりをどう考えるのか、という私の提案から始まった。

10. 教員「そこに、問題はない」という製菓のカリキュラムリーダーから議論ははじまった。面白い。

11. 教員「学校で教えることは、『おいしい』という味が何かを教えることであって、まずいときにどうするかの前に、『おいしい』とは何か、ということを教えることが学校で学ぶもっとも重要なことだと思います」(続く)。

12. 教員(承前)「そのことなしに、鮮度や食材の質の問題をやっても、小技の話に留まります。そんな小技ほど実務の現場で学べばいいことです。小技しかない実務現場はいくらでもあるのですから」

13. 私「それは大切な指摘だね。なるほど美味しいという味の頂点を見定めることなしに、あらゆる食材の鮮度を見極めながら、その味を目指す調理をすることなどできないよね。味の頂点の高みの体験なしには鮮度の差など存在しないからね」

14. 校長「『頂点』というか、『味のストライクゾーン』ね」

15. 私「そうか。なるほど『頂点』というような言い方はたしかにおこがましい。『ストライクゾーン』を外さない経験を学生時代にさせる。それがあらゆる食材評価や食材調理の基本なっていくということですね」(続く)

16. 私(承前)「たしかに、調理の事業所(就職先)なんて、小規模なところも多いから、ストライクゾーンと言っても、ゆるめのストライクゾーンの事業所も多いし、経験主義的な外れもある。本来のストライクゾーンをきちんと学ぶには学校しかない」

17. 私「そもそも、離職者が多くなるのも、ストライクゾーンの経験がないからとも言えますね。それさえあれば、自分の務めた事業所がどんなところであっても、ぶれずに仕事に集中できる」

18. 私「ストライクゾーンの経験があるからこそ、目先の一喜一憂にとらわれずに、道を究めることに邁進できる」

19. 私「学校教育が『基本』教育だというのは、基礎教育や入門教育のことを言うのではなくて、実務の多様性に惑わされない基本を身につけさせると言うことね」

20. 私「その手前の実践教育とか即戦力教育というのは、逆に、実務の多様性に埋もれてしまい新卒離職者を増やしてしまっているということね」

21. 教員「そうだと思います。若い学生のうちに、下手な食材処理テクニックを身につけさせるのではなくて、味覚が麻痺してしまっている若者たちに、まずは味のストライクゾーンを体得させることです。そのための料理、製菓の教育を行うのが第一優先です」。

22. 教員「技術教育はストライクゾーンの体得なしには意味がありません。ストライクゾーンを目指すためにこそ技術は存在しているのですから」

23. 私「そこ(ストライクゾーン)が分かっていれば、鮮度評価やその処理はあとから付いてくる、と。一方、それをわかっていない人材は、いつも小技で終わる職人に留まる、と」

24. 教員「そうです」

25. 私「いや、勉強になります。だとすると世間の考える実践的教育とか即戦力人材育成というのと、今の議論とはかなり乖離があるよねぇ。この乖離をきちんと埋めていく努力なしには、実務家と学校現場が議論しても必ずすれ違いに終わる」

26.私「今の専門学校も大学も、口を開けば『コミュニケーション能力』なんて言うけど、そこには自立した職業人の像や基本は存在しないということね。そもそもコミュニケーションというのは多様性に対する反応能力のことだから、ここで言う〈基本〉の反対語なわけだ」

27.「即戦力論も実践的職業人育成も、実務現場で半年か1,2年も経てば摩滅するような?訓練?をやっているわけで、それこそが新卒離職者が増える元凶。多様性対応は、多様な教育を行うのではなくて、専門的な基本教育こそ重要ということですね。実務家も〈実践〉の意味を分かっていない、と」

つまり、?基本?教育こそ、教育の頂点でなければならないということだ。それこそがもっとも実践的な、息の長い人材作りの原点だと。それは、多様にまみれる実務の現場では不可能。学校教育以外には可能ではないが、学校現場と人事部は相変わらずコミュニケーション能力(笑)。アホだと思う。

しかし、何度も読み返していて少し気になりだしたことがある。
音楽教育における「ストライクゾーン」って何だろ?
自分なりに解っているつもりで読んでいても、もし、人によっては全く違うストライクゾーンをイメージしているのだとしたら、この文の意味合いは全く変わってしまいそうだ。

10月
02
お詣りに

行った。熊野本宮。
最近、鳴き声が気になっていて、しばらく見上げていると鳴くのを止めて西南の方へ一直線に飛んでいくのを何度か経験した。
なので、何回目になるのだろう、また、ぼちぼち行く頃合いか、と。

熊野本宮2014/10/02

朝早く、観光客など誰もいない石段を登っていくと最初に目に付いたのがこれ。
「ぐずぐずするなよ!思い切れよ!」
だな…。

しかし。
いつもはそれでなんとなく腑に落ちて次に向かうのだが、今回は何故だか解らないがその後ずっとすっきりしない。
自分に何かが足りないのだろう、きっと。

帰る道すがら、そこここで何度か鳴き声を聞いた。
「もしかしたら」と思うことも無いわけではない。が、それは「感じた」のではなく「考えた」こと。

鳴き声の主は、足は普通に2本。
鳴き声聞いたからといって、それが何?なのだけれど、その声が気になった瞬間に自分が感じることを大切にしよう、と思うきっかけがかつてあって、それを未だに踏襲しているのです。
ま、ばかげた話しなのですよ。
というよりも、出かける口実かな。