4月
30
身長

昨日の新聞で見つけたことば。

身長が伸びなくなってようやく大人になるわけです  (原研哉)

ものごとの本質をぴたり一言、それも抽象的な概念ではなくて、具体的な記述で引き出すことばがある。これがまさにそうで、成長をめざすのはまだ青いとき、成長のあとにやってくるのは実りのとき、いいかえれば成熟と洗練のときだという。この国の現在を考えるとき、心に銘じておきたいことばである。昨年10月21日、本紙の取材に答えたデザイナーならではのことば。

朝日新聞 折々のことば:29 鷲田清一 より

ほぉ、なるほど、と思いつつ、自分の身長のことを考えた。
子供の頃から身長を測ることは幾度となくやっている。今も健康診断などで身長を測る。
しかし「これで身長の伸びは止まった」とはっきり感じたことはない。むしろ「この前より数mm伸びたかも?」の〈感覚〉が常にあるような気がする。もしかして、本当にまだ身長の伸びは止まっていない!?

私は「まだ青いとき」なんだな、きっと。
(あ、やっと24歳になったばかりだし…。)
ということは、「成長のあとにやってくるのは実りのとき」はいったいいつ来るのだろうか?
「成熟と洗練のとき」は、はたして私に来るのだろうか?

4月
21
Tempo

〜前略

 オーケストラや吹奏楽など、指揮者を必要とする編成が大きい楽曲の演奏は、指揮者が適切なテンポを演奏者に示すことで始まります。分かり切ったことのようですが、実はこのことは、

 演奏者は、指揮者から与えられたテンポを、演奏者自身のテンポとして置き換えることができる

 ということを前提としているのです。
 さらに、演奏者が共通して感じ取ったこのテンポとは、いわば、その曲を進行させるための「慣性」というべきもので、一旦動き出したら簡単には変えられない強力な力です。この慣性という推進力を共有できるからこそ、大人数の演奏でも緻密なアンサンブルや音楽表現が可能なのです。

後略〜

JBCバンドスタディ スコアブック 指導書(YAMAHA) より

これに気が付いていないバンド青少年諸君は案外多いのかもね。

4月
18
こーぼーさま

明日の日曜はこーぼーさまらしい…。

えっと、こーぼーさまってなんだ?

きっと「弘法様」だと思うんだけど、何故だか家々や公民館にお菓子が用意してあって、子供達がそのお菓子をもらいに回るイベント。旧暦の3月21日は「空海」(弘法大師)の命日。今は4月の20日頃がそれにあたり、地方によって「弘法大師祭=おせったい」とか「弘法様」とか呼ぶらしい。

自治会の組長は地区の公民館(その真横に弘法様の祠があるから、地区の老人会とか自治会とかが接待するのだそうだ…)で行うそのイベントでなにか手伝わなければならず、ならば前日仕込み要員として繰り出した。(いや、繰り出してもらった…。)

そこで聞いてきた話し。
明日の本番はトコロテンを出す係とか色々あるんだそうだけれど、それだけでなく交通整理係が必要らしい。「大げさな、大挙して子供達が襲ってくるわけでは無かろうに」などと思う無かれ。
最近は、親たちが車に子供を乗せて回るらしい。
なんと! 歩きや自転車で回るんじゃないんだ。
それで公民館付近が違法駐車の大群になってしまうので、その整理がひつようなんだと。
明日は雨っぽい。車が増えるかも。

なんじゃそれ、って感じ。
色々間違えてると思うよなぁ。

え、ちょっと待って。それじゃ個人宅でこーぼーさまやってるところはどうするのさ。
もし、車との接触事故でもあって接待してる人がその責任問われたら、目も当てられないねぇ。警備員雇うのか?

親はただ車の中で待ってるんだって。ちゃんとそのイベントの本来の趣旨とか、知ってるんだろうか。(いや、知らなくても別にかまわないけれど、お菓子を〈もらいに〉行くってのは当然知ってるよねぇ。)

まず、こーぼーさまの日なんだから、とりあえず(お賽銭はともかく)お詣りするのが筋だろう。
確かに子供達はお菓子が欲しいんだろうけれど、それでも建前ってのがあって、ちゃんと拝んで「こーぼーさん、ありがとう」くらいは思ったり言ったりしたほうがいいんじゃないのかい?
で、そういったイベントは子供達が勝手に競争しながら道草しながら、どこそこは優しいから2回行っても怒られないぜ、とか、あそこは覚えられて1回しかダメだ、とか、俺たちもう16軒も回ったぜ、とか、友達と色々画策しながら回って行くのが楽しいんじゃないのかなぁ。

ただ、旗の目印めがけて車を走らせお菓子をどれだけたくさん効率的に集めるか、みたいになっちゃってるのだとしたらなにか違うと思うんだけどなぁ。
そもそも、それって親がやるべきことなのかしら?我が子のためって言いながら、子どもの愉しみ取り上げちゃってない?

まだまだ行動範囲の狭いちっちゃい子達が、自転車で遠くまで行けるお兄さんお姉さん達を羨ましいと思い、もっと遠くまで行ってたくさんお菓子もらいたいな、と来年のことを考える、みたいなことって、実は大切なんじゃないのかなぁ。

4月
14
3月末に

熊野に行った。何度目だろうか。

初めて熊野に行きだした頃に比べると高速道路が延びてずいぶんアクセスし易くなった。
今は、尾鷲まで一気に南下できて、さらにトンネルばかりではあるが途切れながらも熊野まで行き着いてしまう。しかも一部は無料区間。
(もっとも、高速道路を通るということは、それまで通っていた国道を通らない、ということになってなじみの景色とか寄り道場所とかを忘れてしまいそうなのが少し残念な気もする。)

行きには、お彼岸を少し過ぎたが墓参りもかねて。
それ以外はこの時期の柑橘類や、こちらならではの海産物などを入手することなど。
お詣りは、いつものように三山詣でるのはやめにして今回は本宮のみとした。

新宮の街は桜満開だった。しかし、寒い。それまでぽかぽかな陽気で一気に春満開だったのにな。花冷えというヤツか。

いったん那智の道の駅に寄り、温泉につかり、新宮から熊野川沿いに本宮まで上がっていく。

いつものように石段を登る。
手水で手を清める。
詣る。
しばしその凛とした空気の中に身を置く。
空を仰ぎ深呼吸などする。
石段をゆっくりと下る。

しかし、今回は特別に何かを想ったり感じたりすること無しに、いわば単なる物見遊山な観光のように終始した。
なぜだ?
今まで、なにかしらそこに行くことによって思わぬ反省をしたり希望を持ったりしたのだ。少しだけ良いことが起こったりしたが、ぶちのめされたような気持になったこともある。確かに呼ばれたような気がするときも有ったのだ。
だから何度も何度も足を運んでいたのだ。
それが、なぜだ?とほんの少しだけ引っかかりながら新宮に戻る。

その後それ以外の目的もこなしつつ、ゆったりと過ごす。
勝浦の港でヒトハメの収穫をしている人達を見かけた。そしたらその直後、あんろくめ寿司を食することが出来た。美味い。絶品。
恒例の焼きまんじゅうも並んで手に入れる。
焦燥感も切迫感も、もしくは安心感も持つこと無しに帰路につく。
 

そしていつの間にか4月になって既に2週間近く。
「あ、そういうことだったのか?」と少しずつじわじわと思い至ることがある。

「何も言うことはない。頼るな。おまえはおまえの思うとおりにやれ。もう、やれるだろ?」

そう思う事が出来るまで回復したのだな。
そういえば頭の中ではやりたいことだらけになっているじゃないか。
その後次々と自分の中に新鮮な風が吹いてきているじゃないか。

2015年度。
以前なんとなく「24歳になってもよいかも。」と書いたが、どうやら確実に一つ年齢を重ねたと感じる。
思えばずいぶん久しぶりに年を取ったわけだ。

4月
13
ちょこだま

楽屋のケータリングに出てたお菓子を少し頂いて帰ったことがあって、実はそれがとても気に入った。
直径1cm弱くらいのチョコレート玉。色んな味のものがある。

小さな包装紙から商品名を見つけ出し、WEBにてメーカーなどを確認する。
今まで知らないメーカーだった。

その後、様々な場所にて探すのだがなかなか見つからない。
人に聞いても誰も知らない。
この辺りのスーパーは全滅。
100均で、そのメーカーの別の商品を見かけることがあった。が、欲しいそのものではなかった。
さらに別の100均で似たようなモノを見つける。が何だか違うんだよなぁ。

先日ようやく見つけ出し、手に入れる。大垣にあった。
Chocolate Ball 5MIX


チョコレートボール5MIX

caffee Chocolate Ball


コーヒーチョコ玉

いずれも タカオカチョコレート

これが、なかなかの実力なんだ。
お薦めしたいけれど、なかなか売ってないよ。
探してみてね。

4月
12
本ではなく

声。

いつもの古書店巡りで見つけた。講演収録の一部を並べたCD&BOOK。
講演のCDが入っている。膨大な講演記録音源があるらしいのだがそのほんの僅かな一部だけを少しずつ「立ち聞きする74分」。

そうか、講演か。
と思ってWEBをさまよってみると、ちゃんと有るんだ。ほぼ日刊イトイ新聞の中。
吉本隆明の183講演

FBでシェアしようかと思ったけどやっぱり止めてここにだけ書いておく。なんだかもったいない気がしたので。

早速データ取り込んでipodの中身になった。
 

そうそう、手に入れたCD&BOOKに載っていた一文。

言葉のいちばんの幹は沈黙です。
言葉となって出たものは幹についている葉のようなもので、いいも悪いもその人とは関係ありません。

きっとこれは〈自己表出〉ということなのではないか、と思ったりするのだが、まだそこにきちんと行き当たっていないので…

うわぁ、キラキラの宝物がわんさか出てくる。

4月
05
ツンドク

出かけたついでにあちこちの古本屋チェーン店へ足繁く通う。
欲しい本はなかなか見つからないのだが、それでも少しずつ見つけていくうちに、だいぶ貯まってきた。

読んでいるのかといえば、なかなかそうもいかない。次いつその本に出逢えるか判らないから一つ読んでから次を買う、ということができず、見つけたら即買うはめになるので読むのが追いつかない。

結果机の上に山積みである。少し触るだけで倒れそうな山。
速読ってのができたら便利だろうな、と思うが、それでは自分の理解がついて行けないのではないか、とも思う。

そもそも、私の本の読み方がもしかしたら普通ではないのかも知れない(書籍のレビューを書いていらっしゃる方々のような読み方をしていないのかも知れない)、と思い始めていてその辺りのこと(文字を読んで理解する、ということがどういうことなのか、読むということはどんな状態なのか…のようなことなど)も検証しつつで余計時間がかかるから、目で文字を追うインプットだけが早くなっても演算が追いつかないように思うんだなぁ。

本を開く時間をもう少し増やせたら良いのだが。

4月
04
この時期

この辺り、桜全開である。
遠くに望むそここの公園や川の土手や街路樹が桜色の煙幕を張ったようにかすんでいる。
樹下に入れば今日の雨と風で道端や水路にはおびただしい花びらが舞い落ち、その桜色は次第に拡散しつつある。
もう数日で興奮も冷め、咲いていたことすら忘れられていくことだろう。

この1週間足らずの花の宴のために世の中に植えたも植えたソメイヨシノ。
確かにこの一瞬は本当に美しいが、その陰に隠れて様々な花が咲いていることを忘れたくない。

人々が浮かれて花見宴会をしているレジャーシートの下にだって小さな別の花が咲いていて、踏みにじられているかも知れないのだ。

春を待ち望んでいたのは桜だけではない。

4月
01
4月

昨日まではぽかぽか陽気。
一気に花が咲き、芽を吹き、燕が飛来し、雲雀が鳴く。
今日は春雨。ぐんぐん沢山の命が欲張って競争(…漢字変換で〈協奏〉って出た。こっちのが良いなぁ…。)する。

毎年毎年の偉大なる繰り返し。繰り返せることの素晴らしさ。

気が付かないうちに繰り返せないことも増えてきているはず。
少なくとも我が家の前に「ケリ」や「キジ」が来ることはきっともう無い。蛙は鳴くだろうか。蛇は来るだろうか。