6月
10
集中工事

最近、高速道路の工事では「集中工事」というものが主流になってきた。
いつもあちこちで小さな工事が散らばっているよりはましなのだろうとは思うが、実際にその集中工事と自分の移動が重なるととんでもないことになる。

20kmも30kmも連続車線規制が続く。全く止まって動かなくなる、といいうことはないが、総じてアイドリングで動いている程度の速さ。
「安全のため連続して車線規制しています」のだから、いったん規制部分にはいると何とか流れ出すのではないかと期待したが、駄目。
ジャンクションのたびにほかからの流入車数がおびただしい。そこで流れはすぐ悪くなる。
高速道路が整備されてきたおかげでジャンクションの数はずいぶん増えたからなぁ。

あらかじめ判っているとはいえ、渋滞の予測が不慣れな者には難しい。
普段(高速道路のみでは)約40分で行くところを、今日は2時間近くかかった。

あーあ。来週もだ。
別ルート開拓しようっと。

6月
07
「音楽」は理数科目である

考えるきっかけとして以下サイトを紹介。マガジン航より

音楽教育理数系編入論【前篇】
音楽教育理数系編入論【後篇】

【後編】に
学校は経験や知識を与えるべきである。感性や情操を直接的に強要すべきではない。
とあって、その通りだとは思う。そして、「音楽」という教科は、特に知識を与える事についてないがしろにしてきたかもしれない、と思う。

なぜなら、楽譜の読み書きは既に小学生の低学年でやっているはずなのに、中学生でも高校生でも平気で「私は楽譜読めません」と言う。だいたいそういうときは「読めることが特殊なのだ」と言いたげだ。

しかし一方で「感性や情操」も育てたいと思う。もちろん「育てる」というのは「ある決められた感性や情操を身につけさせる」ではない。
どうしてもそこに行き着きたい。そこに行き着きけると思いたいのだ。
 

上記のリンク紹介は『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)の著者 藤谷治 という方が書いた記事。
近いうちにその小説は読むことになるだろう。

6月
06
喫煙室

移動中、高等学校の校門横にて、雨の中にもかかわらず立ちつくして喫煙している人を見かけた。

いうまでもなく、校内禁煙になってしまったのでしかたなく「校外」に出てちょっと一服、な愛煙家先生だと思われる。

少しだけ同情しつつタバコのことを考えていたら、つと思い出したことがあった。
全く別な時と場所なのだが、喫煙に関する何度も出会った同じような状況のことだ。

そこには喫煙室があった。(施設内禁煙なのだから本来あってはならない部屋。力のある愛煙家の超法規的措置による。本来ならば当然冒頭の状況にならなければならない。いや、それだってあまり見栄えの良い物ではないが…。)
当然、愛煙家は何か理由を見つけてはそこに行ってたばこをくゆらす。
それは全く構わない。私だってかつて自他共に認めるヘビースモーカーだった。タバコを吸いたくなる心境とかタイミングとか喫煙中の雰囲気とかとても理解できる。
はじめは「どうごぞゆっくり」な気持ちでそんな状況を流していた。

しばらく経って、いつの間にか物事のあらましが決まっていたり特定の情報が特定の人達だけに知られていたりすることがあり、それはなんでだろ? と考えていて「そうか?」と思い至った。
組織のトップは愛煙家。愛煙家だから要人というわけではないが、要職に愛煙家は複数いる。有象無象の愛煙家はそれなりに。
「そうか、喫煙室が密談室になっているんだ」

通常、喫煙室はタバコを吸うところ。そしてリラックスするところ。だから愛煙家はそこに集う。
その状況で、様々な話題が出て、その(大概は他愛もない)やりとりがあって、業務に戻っていく。

しかし、時として状況が逆になることがあるのだ。
暗黙の招集がかかり、煙の中で頭をつきあわせながら策を練り、ヤニにまみれて出来上がったそのプランを持って喫煙室から出てくる。

嫌煙家は絶対その部屋に入ってこないだろう。保証付きだ。どうしても急ぎの用事があったらケータイ。
健康を害すると最大敵視している煙った空気、ヤニのにおいの中に自ら入って来るわけがない。
それを良いことにそこにいる人達だけで物事が決まっていく。
「決定」されるわけではないがだいたいの骨子ができあがりその後のシナリオが出来ている。

一番はじめに気がついたときは「フェアじゃない!」と気に入らなかった。
いつどこでそのことを糾弾しようか狙っていたくらいだ。
再度違うところで発見したときには、ああ、まただ。で終わらせてしまったけど。

私がそこに入って行っても咎められることはなくむしろ歓迎されただろうが、休煙(禁煙)はじめたばかりでまだ不安定だった私がその部屋に入ったら、絶対また吸いたくなるに決まってる。
吸いたくなったらまたいつでも吸うぞと(今でも)思っているが、仲間に入りたいがための喫煙再開という愚行はしたくなかった。(する人もいたということだ。そして勘違いが始まる。)

全く同じ状況に何度も出会った。全然別のところでも。別の時間でも。
きっとどこでも状況は同じなんだろうね。人のやることなんだから。

幸か不幸か、私の休煙は途切れることなくまだ続いている。

6月
02
鯨のソング

海獣の子供   五十嵐大介 / 小学館 IKKI COMIX より

ジム
 「何が違ってしまったのか…」
アングラード
 「ねえ、ジム。僕とあなたとの違いがわかる?」
ジム
 「え…」
アングラード
 「 ”言語”なんだ。
  僕はごらんの通りおしゃべりだけど、言語のない世界を持っている。
  世界を受け止める事認識する事を、言語に因らずにしているんだ。
  あのころと同じように…」
ジム
 「…」
アングラード
 「言語は性能の悪い受像器みたいなもので、
  世界の姿を粗すぎたりゆがめたりボヤかして見えにくくしてしまう。
  ”言語で考える”って事は決められた型に無理に押し込めて、
  はみ出した部分は捨ててしまうということなんだ。
  鯨のうたや鳥の囀りアザラシの泳ぐ姿のほうが、
  ずっと豊かに、世界を表現している。
  きっと昔は人類も同じだったはずだよ。」

「海獣の子供」は空と海と琉花のお話。

圧倒される。
特に5巻。ほとんどセリフなしで「本番」時の描写が何ページも続く場面での凄まじい緊張感。
途中で目がクラクラし、ページをめくる手が震えてきた。
まさに、上述したアングラードの言葉そのものだ。

読み終わってずいぶんな衝撃を受けている。