8月
16
野外生活

数十年前から頻繁にキャンプをしに出かけている。
当初から、出来るだけ最小限の装備で、楽しく充実したキャンプ生活をしたいと思っていた。
そこを拠点に釣りしたり、星見たり、虫取ったり、史跡巡ったりと様々なアクティビティをするための、ベースとしてのキャンプだから。

しかし、はじめてオートキャンプ場に行った時はカルチャーショックだったなぁ。
皆さんものすごく重装備なのだ。オートキャンプ場だから車横付けなのは便利で良いのだけれど、何でもかんでも車から出てくる。
立派なツーバーナーコンロ。バーベキューグリルとそれ用の机といす。調理台。シンク。焚き火台。薪も持参だ。燻製機。ダッヂオーブン。コット(簡易ベッド)。ハンモック。大量の燃料(炭やガスやガソリン)。大きなクーラーボックス。…。テントもでかい!タープもでかい!
そのうちラジオもテレビもゲーム機も出てきて、しまいには発電機も出てきて。
食事も朝昼晩と毎食、てんこ盛りの高級食材と格闘している感じ。

それでいて、夜は虫が嫌でスクリーンタープの中に閉じこもる。
キャンプ生活をしに来ているのに、自宅にいるのとなんら変わりない環境を望んでいるのかしら。
(不思議に意味がなくても焚き火はしたがるようで…。)
「皆さん、”キャンプすること”が目的なんだね。」と知った。

それもアウトドアキャンプの有り方だとは思うケド。
そこにねらいを付けた高級キャンプ用品もたくさん開発され皆が憧れた。

私も一時期はそれらを欲しいと思ったし手に入れた物もそこそこあるが、今はなんだか全くそそられない。

最近は一時期よりはそういったキャンパーは少なくなったのかな。
愛好家を増やそうといろいろ工夫しイベントなどもやっているみたいだけれど…。スポーツ用品店の高級キャンプ用品コーナーはだいぶ縮小されているように感じる。
キャンプすることのみが目的だと、次第にめんどくさくなって飽きてきてしまうから、既にブームは去ったのかも知れないなと思う。
今は、もっとお手軽に、近場のBBQで良いじゃん、というノリかも。
 

わたしは、といえば、現在は回数こそ少なくなったがやはり出かける。わざわざ不自由な生活をしに行くのも不思議だと思うけれど、それでもそんな旅はやめられない。

テント張らずに車中泊で済ませてしまうくらいだから、さらに装備は少なくなった。サバイバルするつもりは毛頭ないけれど、キャンプとは最低限の衣食住確保で充分だと思うから。
そしてそこから、釣りをしたり、鳥を見に行ったりする。秘境に身を委ねたいし、写真もいろいろ撮りたい。もちろん現地の旬な旨い物を入手するのも大切。今はやりの有名なご当地B級グルメではなく、地元の鄙びたスーパーマーケットに何食わぬ顔して普通に並んでいる中に地元の逸材が隠れている。それを探し当てるのも楽しい。
 

さて。
何日間か旅に出ます。
この暑さから少しの間だけでも逃れ、自然の中で心の洗濯をしたい。

8月
12
見えてきたこと

前回(自転車と一輪車)からの続き

見えてきたことは、実は新しい事ではない。
今までも見え隠れしながら私の周りにまとわりついていて何かある度に少しずつ顕在化してきた事々なのだが、うすらぼんやりとしか見えていなかった一つ一つの事々は、だから確固たる自信がなかったり、自信はあるけれどその実行に弱気だったりして、どうにも情けない状況だったのだ。(それでたくさんの失望や迷惑をおかけしてきた。本当に申し訳ないです。)

それが今、その一つ一つはやはりどれも大切で、それらを有機的に結びつけていずれ一つの大きな動きにする、という道筋がはっきり見えてきたのだ。そう、いきなり。

今はまだ、その目指すべき一つの大きな動きを説明するのは難しい。
しかし、その全体の大きな動きに中にある一つ一つの要素を着実に進めていくことこそが、それを説明する一番最良の道なのだということは判った。

今現在、実際に動き出している事は二つほど。
始めかけていることが一つ。(これはずっと以前より考えているけれどなかなか進んで行かなくて、そろそろ加速せねばと思っていた。)
これをきっかけに相談開始していることが一つ。
今までもやっていたけれど、もっとたくさんやらねば、と思っている自分自身のこと二つ。
今までもやっていたけれど、もっとたくさんやりたい(でも、こればかりは私ひとりでは出来ない…、どうか依頼してください!)こと一つ。
まだ何もやれていない、けれど、とても大切で必ずそこに行きつかなければならないこと、三つ?いや四つか?

全てが私のイメージの中で明確にリンクしている。
まだまだ見えていないこともきっとあるだろうから、するべき事は数多い。
 

これを書いている最中に、かつての生徒が音楽で活躍しているという便りが届く。(facebookの情報です)
彼女は、「自転車」に乗って縦横無尽に音楽という世界を駆け回っているのだ。
 
たどり着くための大きな力を頂く幸せ。
皆さん、どうか今一度力をお貸しくださいませ。
少しずつかも知れないけれど、私は本気で動き出します。

8月
11
自転車と一輪車

自転車や一輪車は、だいたい小学生かそれより少し前くらいに乗れるようになるのだと思う。
いずれも同じように人が乗ってバランスを取りつつ前に進んだりする。
でもこの二つ、タイヤ数の違いだけでなく、性格が根本的に違う。

一輪車は乗れることがステータスだ。さらに難易度の高い技を競ったりして「乗る」こと自体が楽しさである。もっと高度に「乗る」「操る」ことを目指しつつ。
一方、自転車は乗れることのみが目的ではない。今まで行けなかった遠くにまで足を伸ばせるようになることや、移動時間の短縮にもなるし、より多くの(重い)荷物を運んだりもできる。そういった乗れることによって生まれる恩恵のほうに重要な意味がある。他のアクティビティの範囲を広げるためにこそ自転車はあるのだ。

最近は自転車に「乗る」ことが大きな目的だろうと思われる上から下までビシッとバイクファッションで固めた大勢の方々が、車道をかっ飛ばしていらっしゃるけれど。
移動や輸送の手段で動いている大多数の自動車と道上でなかなか折り合いが付かないのはその目的が違うからかも、と思ったりする。

確かに、乗る自転車は錆付いたママチャリより最新のマウンテンバイクやロードバイクの方がかっこいい。(とはいえ、体にあったサイズや調整をしていないと少々苦しいのも事実だが。)
しかし「乗れる」からこそ「行動が広がる」のが自転車であって、乗っている自転車がかっこいいかどうかはまた別の話なのだと思う。
 
 

そんなことを、今年の吹奏楽コンクールの様々な演奏を聴きながら考えた。
どこのバンドも楽器は達者に吹けるようになった。個々の楽器の集合体である「バンド」という大きな楽器も本当に達者になった。
吹奏楽コンクールは、まさにその達者さを競っているのだと改めて感じた。それはとても難易度の高い一輪車的アクロバティックな競技なんだな。

で?

中学高校で管楽器や打楽器に興じているこんなにたくさんの人達はこの先いったいどこへ行くのだ。小学生の頃一輪車に興じた多くの子供達が、大人になったら一輪車のことなんか全く忘れてしまうように、みんな吹奏楽から、楽器から離れていってしまう。

一輪車のように、楽器が達者に吹けるようなることやバンドとして精度を高くすることだけではなく、自転車のように、出来るようになったその先にあるもっとたくさんのもっと大きな様々な楽しみを伝えてくるような、そんな演奏を目指して欲しいと心底思った。(もちろん自転車に乗れなければ決して出来ないのだから、自転車をうまく乗りこなす技は必要である。)

一輪車的な吹奏楽は話題性もあり世間に振り向いてもらえる可能性は高いが、それが続けば飽きてくる。本人も飽きる。私はとうの昔に飽きている。
きちんとその先の数ある楽しみを伝え、だからこそ吹奏楽(音楽)を続けたいと思わせる楽器技術やバンド演奏にならなければならないと強く思う。さらに言えば、それが自転車ではなく自動車になっていく可能性をも見せるべきだと思うのだ。

そこを押さえた指導がいかに大切かということと、それをこのコンクール現状の中では実践するのは難しいのだろうということ。
個々のバンドレベルでの問題ではなく、もっと大きな視点で捉え大きな動きにしていかないと、吹奏楽という音楽文化はいずれ衰退していくのだろうとさえ思った。

それは今年度のとある課題曲の扱い一つとっても感じる。「音楽の表現」という領域に入ってい(け)ない場合が多いのが露呈した感じ。演奏する側(※実際に演奏した団体についてのことではない。演奏した団体はその曲を「選んだ」時点で既に「表現」を意識している…)も評価する側も。この数年何となく感じていたがそれがこの曲によりはっきりした。
特に、評価する側についてそう思っていたら、最近になって「この曲は吹奏楽コンクールの審査員を試そうとしたんだ」と作曲者本人が言ったとか言わなかったとかの話を小耳に挟んだ。いずれコンクールが全部終わったら今度は「吹奏楽連盟を試したんだ」と言いそうだね。(私は最初からそう思っているけど。)

そして、衰退をしはじめたら止めるのは難しいかも、と思う。
 

一方で、たくさんのレッスンの様子から、個人レベルでは皆それ相当の力を持っているように感じている。しかし、本人達はどうやらそれを知らないみたい。力の発揮の仕方を知らない、「発揮させる」という発想を持たない、というか。でも本当に一生懸命一輪車の練習はしてるんだよ。
(あ、鉄棒の逆上がりに置き換えても同じ事。その先に何か良いことあるの?が判らないまま、本当にまじめに練習してる。あたかも「それが出来ること」が最大の目標のように。「それが出来たら良い成績をもらえる」ことが最終目標のように。)
 
 

その中で私は何が出来る?
何をするべきだ?

この数年(数十年かも知れない…)の混沌の中から見せるべき形が浮かんできたように思う。今までぼんやり見え隠れしながら感じていたことが、今年はとてもはっきり見えだした。

(続く)

8月
05
一息

昨日で一息つくことになった。
この夏、私とバンドで関わっていただいた全ての皆さん、すばらしい!

練習を進める上で、その前後に日頃指導していらっしゃる先生方と様々なお話をする度に、直接皆さんとお話しする中で、ひしひしと感じる夏でした。
何を、かというと、スクールバンドの根底は「教育活動」だということ。

実際には、楽器が上手くなることや音楽(表現)がさらに高度になることを、ひたすらやっているだけです。
いい音を出せ! 音程を合わせろ! タイミング合わせろ! 等々。
そして、その成果を(冷酷に)評価され順位が付く。それがコンクールです。
事柄は至極単純。

これでもか、といわんばかりに楽器の課題が出て解決できずに途方に暮れ投げ出したくなったり、他のメンバーと折り合いがうまくいかなくなったり、顧問の先生に言いたいことが言えず悩んだり。
それでも、一つになることを目指し、音楽が雄弁に語り出すのを夢見て、音楽に打ち込む。
もう一度演奏するチャンスが欲しい! これを最後にしたくない! と熱望しながら本番の演奏に臨む。

見えているのは「それだけ」といえばそれだけのことなんです。
しかし、それと同時進行しているもっと大きい意味でのひとりひとりの心のありようが、ずっと大切なんだ。

だから、その見えていることだけにとらわれている演奏を聴くと悲しくなる。「それでは悲しいから、ちゃんと音楽やろうよ」と言葉にしてみるのだが、なかなか「音楽」の意味合いを深く伝えられずにいつも苦悶する…。

心のありようなんて誰にも見えない。自分だって良く見えないのだもの。
しかし唯一、出てきた音を通してその心のありようが手に取るように判るときがある。

「出てきた音」と「その心のありよう」。この二つは必ず表裏一体。二つで1セット。
音現象のクオリティを求めるのだけれど、ただそれだけを求めてもダメ。もちろん心のありようだけを求めてもダメ。そんな精神論だけでは今のスイソウガクは歯が立たない。音楽の本質を真摯に追究することよっていつの間にか技術が高まり心が磨かれ二つが1セットになる。生半可じゃダメ。「音楽のまねごと」でもダメ。とにかく全力で事に当たらないと何も動き始めない。

そのことを噛みしめ日頃から心を砕いてご指導いただいている顧問の先生方がいらっしゃってこその活動なんです。関わり方はいろいろです。おおらかに自主に任せる、丁寧にアドバイスしていく、一つ一つ指示してチェックする。でも、どの方々も生徒の皆さんと一緒に「本番」という土俵に登り評価の対象として晒されるのです。そうまでして生徒ひとりひとりの成長を願っているのです。

だから育っていく。この夏の暑いさなか劇的に育つのです。
それを目の当たりにすることが出来るなんて、こんなに幸せなことはないです。

また、先日は「その後」の確認も出来た。数年前にはまだ中学生だった人達がさらに次を目指しているがんばっている話を聞き、何年も何十年も経っているのに当時の面影のまま、しかしそれ以降重ねてきた経験を頼もしく感じつつ再会することできた人達が居た。
これはさらに嬉しい。

今はまだ、悔しい涙、悲しい涙、苦しい涙、が乾いていない人も多いと思う。それも良い。
来年こそは、と密かに決意している人や、もう来年にこの夏はないんだ、と寂しく感じてる人もいるだろう。それも良い。
やり切った満足感にあふれている人もいるだろう。それも良い。

音楽を突き進めようとした結果受け取る感情は何物にも代え難い。それがどんな物であれ成長の証であることは間違いないのだから。

あらためて、この夏音楽で関わることの出来た全ての皆さんに伝えたい。
「本当にすばらしい!最高です!」

8月
01
花火大会

我が街には昨年まで花火大会があった。
さほど大規模ではないにしても人気はあって毎年賑わっていた。

それが、今年から中止になった。理由は当初、交通渋滞がひどく近隣からの苦情が多かったから、と聞き及んでいた。
確かに開催中、近くの県道は全く身動きが出来ないくらいの渋滞だったが、だからといって「花火大会を中止せよ」になってしまうのもなんだかなぁ、と思っていた。1年に一度のことだし、住人だって花火大会楽しみたい人多いだろうから、そんなかんたんに中止で良いのかなぁ、と思っていた。

そんな折、本日もう少し詳しい話を聞き及んだ。本当の理由かどうかは判らないけれど、「さもありなん」な感は否めない。

我が街には大きな大学病院がある。ドクターヘリ基地があるような救急医療の拠点になる病院だろう。
花火大会中、その病院につながる全ての道で違法駐車がひどく、救急車が全く通れなくなることが一番大きな理由らしい。
急患を乗せ病院を目の前にして、しかし違法駐車の群れで行き着けない。そんな理由で本来つながる命がつながらなかったのだとしたら…。(やはり、そんな例があったのだろうか。)
人の命に関わる事だから、そりゃ中止もやむ得ない、と思った。とても残念だけれど。

 
そうか、そこまで思いつかなかった。最大の原因は違法駐車なんだ。救急車も通れなくなるくらいに道の両脇にずらっと並んだ違法駐車。
それって、まさに花火大会を楽しみに訪れる人達の車だ。
もし本当に理由がそうならば、一番花火を楽しみたい人(楽しんだ人)達が、いつの間にか自分達の首を絞めた、ということになる。

中止の原因を作ったかもしれない人達がそこに思い至る事があればよいのだけれど。