8月
11
自転車と一輪車

自転車や一輪車は、だいたい小学生かそれより少し前くらいに乗れるようになるのだと思う。
いずれも同じように人が乗ってバランスを取りつつ前に進んだりする。
でもこの二つ、タイヤ数の違いだけでなく、性格が根本的に違う。

一輪車は乗れることがステータスだ。さらに難易度の高い技を競ったりして「乗る」こと自体が楽しさである。もっと高度に「乗る」「操る」ことを目指しつつ。
一方、自転車は乗れることのみが目的ではない。今まで行けなかった遠くにまで足を伸ばせるようになることや、移動時間の短縮にもなるし、より多くの(重い)荷物を運んだりもできる。そういった乗れることによって生まれる恩恵のほうに重要な意味がある。他のアクティビティの範囲を広げるためにこそ自転車はあるのだ。

最近は自転車に「乗る」ことが大きな目的だろうと思われる上から下までビシッとバイクファッションで固めた大勢の方々が、車道をかっ飛ばしていらっしゃるけれど。
移動や輸送の手段で動いている大多数の自動車と道上でなかなか折り合いが付かないのはその目的が違うからかも、と思ったりする。

確かに、乗る自転車は錆付いたママチャリより最新のマウンテンバイクやロードバイクの方がかっこいい。(とはいえ、体にあったサイズや調整をしていないと少々苦しいのも事実だが。)
しかし「乗れる」からこそ「行動が広がる」のが自転車であって、乗っている自転車がかっこいいかどうかはまた別の話なのだと思う。
 
 

そんなことを、今年の吹奏楽コンクールの様々な演奏を聴きながら考えた。
どこのバンドも楽器は達者に吹けるようになった。個々の楽器の集合体である「バンド」という大きな楽器も本当に達者になった。
吹奏楽コンクールは、まさにその達者さを競っているのだと改めて感じた。それはとても難易度の高い一輪車的アクロバティックな競技なんだな。

で?

中学高校で管楽器や打楽器に興じているこんなにたくさんの人達はこの先いったいどこへ行くのだ。小学生の頃一輪車に興じた多くの子供達が、大人になったら一輪車のことなんか全く忘れてしまうように、みんな吹奏楽から、楽器から離れていってしまう。

一輪車のように、楽器が達者に吹けるようなることやバンドとして精度を高くすることだけではなく、自転車のように、出来るようになったその先にあるもっとたくさんのもっと大きな様々な楽しみを伝えてくるような、そんな演奏を目指して欲しいと心底思った。(もちろん自転車に乗れなければ決して出来ないのだから、自転車をうまく乗りこなす技は必要である。)

一輪車的な吹奏楽は話題性もあり世間に振り向いてもらえる可能性は高いが、それが続けば飽きてくる。本人も飽きる。私はとうの昔に飽きている。
きちんとその先の数ある楽しみを伝え、だからこそ吹奏楽(音楽)を続けたいと思わせる楽器技術やバンド演奏にならなければならないと強く思う。さらに言えば、それが自転車ではなく自動車になっていく可能性をも見せるべきだと思うのだ。

そこを押さえた指導がいかに大切かということと、それをこのコンクール現状の中では実践するのは難しいのだろうということ。
個々のバンドレベルでの問題ではなく、もっと大きな視点で捉え大きな動きにしていかないと、吹奏楽という音楽文化はいずれ衰退していくのだろうとさえ思った。

それは今年度のとある課題曲の扱い一つとっても感じる。「音楽の表現」という領域に入ってい(け)ない場合が多いのが露呈した感じ。演奏する側(※実際に演奏した団体についてのことではない。演奏した団体はその曲を「選んだ」時点で既に「表現」を意識している…)も評価する側も。この数年何となく感じていたがそれがこの曲によりはっきりした。
特に、評価する側についてそう思っていたら、最近になって「この曲は吹奏楽コンクールの審査員を試そうとしたんだ」と作曲者本人が言ったとか言わなかったとかの話を小耳に挟んだ。いずれコンクールが全部終わったら今度は「吹奏楽連盟を試したんだ」と言いそうだね。(私は最初からそう思っているけど。)

そして、衰退をしはじめたら止めるのは難しいかも、と思う。
 

一方で、たくさんのレッスンの様子から、個人レベルでは皆それ相当の力を持っているように感じている。しかし、本人達はどうやらそれを知らないみたい。力の発揮の仕方を知らない、「発揮させる」という発想を持たない、というか。でも本当に一生懸命一輪車の練習はしてるんだよ。
(あ、鉄棒の逆上がりに置き換えても同じ事。その先に何か良いことあるの?が判らないまま、本当にまじめに練習してる。あたかも「それが出来ること」が最大の目標のように。「それが出来たら良い成績をもらえる」ことが最終目標のように。)
 
 

その中で私は何が出来る?
何をするべきだ?

この数年(数十年かも知れない…)の混沌の中から見せるべき形が浮かんできたように思う。今までぼんやり見え隠れしながら感じていたことが、今年はとてもはっきり見えだした。

(続く)