2月
23
古本屋で

書籍やらコミックやらを探す事が最近多くなった。

今までコミックを読む機会は決して多くなかったのだが、古本屋の棚にずらっと並んでいるのを見て今さらながら気が付いた。
映画やTVドラマ(実写もアニメも!)の原作はなんとコミック漫画が多いことか。
 

色々読んでみて「なるほどね」と納得したことはたくさんある。
まず、話が面白い。
ジャンルも作画も本当に様々だが、話が良くできているものが多い。もちろん素材そのものも話の展開も。
漫画だから当たり前だけれど既に画面のカット割りがしてある。良い作品であればあるほどその構成が素晴らしい。

だから、映像作品に翻案するのは案外簡単かも知れない。活字だけの本をビジュアル化するのと違い映像イメージは既に具体化されているから。セリフもほとんどそのままで大丈夫そうだし。(イメージが固定がされてむしろ難しい場合もあるだろうか。逆に活字だけの場合はそこの自由度がとても高い。)
 

コミック漫画作家の仕事内容って締め切りに追われ、構想を錬る事と絵を描く作業時間との戦いでとても壮絶そうな感じがするけれど、だからこそ、作品が作者の手を離れ様々な展開をしていくときに、そこに携わる人たちは楽が出来るんだな、と思ってしまうなぁ。
脚本も演出もキャスティングも、もう既にビジュアルとして具体化されたお手本がそこにあるのだから。

率直に言うと、いまのご時世、映画もTVドラマもコミック漫画原作がなかったら何も出来ないんじゃないの、と。
であるならば、今の世の中の風潮や流れを作っているのはコミック作家ということになるゾ。
実は、一番すごいのはその人達かも。一番の始まりを作っているのだから。

漫画家志望の人たちは、そもそも絵を描くことが入り口だったのだろうか?それともたまたま表現手段が絵を描くことだったのだろうか?
絵が上手い能力と、話の構想能力は必ずしもイコールではないと思うのだが。
修行していくうちにどこかでそれが一致する、あるいは、漫画界にはドラマを描く能力に長けた人が集まる仕組みでもあるのだろうか。

2月
19
夕方に

ちょっとした買い物のために車で出た。
帰り道、既に日は落ちて暗くなっていた。
急ぎだったが目的のモノは問題なく手に入ったので、ほっとしながら市街地を抜けていた。

ある交差点を東に向けて曲がったら、突然目の前に大きな大きな満月があらわれた。
昨日の雨と今日の強風で空気も澄んでいるのだろう。美しいだけでなくとんでもなく力が漲っているように見えた。
いきなりだったから余計にそう思ったのかも知れない。

車の中ではいつも入れっぱなしのマリンスキー/ゲルギエフのショスタコ7番・4楽章の最終盤が大音量でなっている。
妙に高揚感に溢れたマッチングで、違う世界に行ってしまう気配すら感じたのだった。

2月
14
写真

を探す。
これがなかなか無いんだな。

自分の姿で、演奏中だったりレッスン中だったりするやつ。

普段、写真撮る準備して練習することはまず無い。
ホールなどで練習するときは、スタッフが撮ることもあるけれど舞台上の演奏者と同じ目線でカメラを構えることは少なく、客席からの場合が多いかな。
特に本番の写真はない。正面から撮ることはまず不可能だから、あったとしても後ろ姿。せいぜい舞台の袖からの横顔が精一杯。

演奏中でなくても。
よく本番後など舞台裏で「記念に一緒に写真撮ってください」になることがあるが、その写真がこちらの手元に届くことはまず無い。
いままでたくさん撮ったと思うんだけどなぁ。
特に、カメラがデジタル化してからは皆無に近い。
せいぜい「ほら、これ!」といって携帯やPCの画面を見せてもらってお終い。

それぞれが記念に持ったままなのだろうか。(それとも速攻で削除されてるか?)
 

探してみて、あらためて無いことに気が付いたのでした。

2月
09
2本の

映画を続けて観た。
レンタルDVDで。

「アイデン アンド ティティ」 原作:みうらじゅん 監督:田口トモロヲ 脚本:宮藤官九郎
「チルドレン」 原作:伊坂幸太郎 監督:源孝志 脚本:後藤法子、源孝志

特に意識してレンタルDVD屋の棚を探したわけでもないのに、自分にとって妙にタイムリーな中身だった。
いずれもここ数年の作品のようだけれど、大切なものを再確認させられるようで興味深い。
そして、こんな問題意識を持って(作品にしようとして)いる人がきちんと存在していることに少々ほっとし、心強くもなる。

2月
07
日々

この世の中では様々なことが起きる。至極当然。
起きたことを知りたいと思い、知らせたいと思う。これも当然。(もちろん知らせたくないという場合もあるだろう。容易に想像できる。)

しかし、なかなかうまくいかない。
…マスコミの話ね。
問題の一つは知りたい側。「何を」知りたいのか。
知るべき事を見極める力が足りないと感じる。
これは永遠の課題かもね。いつでも人は無責任な野次馬になりたいから。

もう一つは知らせたい側。「何を」知らせるべきか。
難解だから避ける、とか、食いつきが良いから大げさにするとか。
その段階で既に事実を知らせる意図を逸脱してしまうことが増えてきたと感じる。
さらには、解説やコメントと称して客観的な事実ではないことも同時に知らされる。
玉石混ざっていることが無条件にダメなのではなく、区別がしづらく恣意的に誘導されていく危険があることが問題だ。
CMだったら必ず「これは個人の意見・感想です。」という但し書きがテロップになるよ。

「報道」と「ワイドショー」。
送り手側は、その区別を自分の都合で曖昧にし、もとより受け手側は野次馬根性で自分にとって特に興味を持った(解説委員とかコメンテーターの)私見を客観報道と勘違いし、混沌としていく。
 

例えばこんな事。
少なくともNHK夜7時のニュースのトップは、大相撲の不祥事ではなく、エジプトの状勢であって欲しい。
(大相撲不祥事報道は必要ない、のではなく、限られた時間の中なのだから優先順位よく考えて欲しい、ということだ。)

余談ではあるが、そもそも「大相撲はスポーツなのか?」という疑問もある。
国技?伝統芸能?
いつだったか女性知事が表彰式の土俵に上がれなくて問題になったが、スポーツの世界でそんなことあって良いの?「聖域だから女人禁制」って。
スポーツではなく伝統文化と考えると、それもありか、と。いろいろと。

2月
05
1年前の

この時期にこんな記事を書いている。
今年も、昨年と同じ二つの演奏会が先週・今週と続く。
どちらも継続は力なりだ、と思う。

成果が実感できるようになるのには時間がかかることなのだ。
時間をかけることの大切さを理解してもらう大切さ。
決して一朝一夕では為し得ないのに、せっかちな現代ではすぐ淘汰されそうになる。関わっている人たちは本当に苦しい。

話していくうちに、学校教育ではなく、もっと別、社会教育の範疇での対策のほうが有効なのかも、と思うようになってきた。
しかし個人の力だけでは如何ともし難い状況まで来ているだろう。
何かもっと大きな組織的な動きが必要なんじゃないか。

当時の言葉。どうしたらよいか皆目見当もつかなかったんだ。

一年経った今、ほんの少しずつだけど、微かな動きがあるようにはなった。
その、微かな始まりを大切に育てたい。
いつか大きなうねりになるように。

2月
03
節分

の今日、暖かく穏やかな日。
空は青く、風もなく。

昨年強く剪定した柿の木。勢いよく伸びた徒長枝を整理してみた。
判らないままやっているので、正しいのかどうなのかよく判らない。今年実はなるのかな。

元々這性だったのにいつの間にか木質化し立木になっていたローズマリーは、風の通り道にあるためか昨年傾きついに立ち枯れていた。
それを根元から切った。枝がとんでもなく絡み合っていて崩せず塊のまま。当たり前だが匂いはローズマリーだ。強い。

金木犀の枝も整理しようと思ったが、もう少し剪定のしかたを調べることにしてしばらく眺めていた。モズの早贄が三つ四つ干からびてぶら下がっていた。
 

今日が節分なのだから、明日は立春(で合ってる?)。
大自然はすごい。厳しい寒さの中でも次の準備は確実に進んでいる。

2月
01
背中を押す

考えようによっては無謀で乱暴だと思っているのかも知れない。
他人と強く関わることだから。躊躇してしまう場合が多いから。
でも、踏ん切りがつかないときに人に背中を押してもらうと、ほっとするときがあるのは事実。

ならば、迷惑顧みず積極的に背中を押してしまうのも一つの手だよな。
本当に迷惑ならば、少々背中押されたって動き出しはしないだろうし。

もちろんタイミングは慎重に、押し方もよく検討して。

1月
31
たくさんの笑顔

たくさんの発見。
たくさんの頑張り。
たくさんの繋がり。
たくさんのふれあい。
たくさんの助け合い。

雪の降る寒い一日の午後。
220人を超える人数の30分の大合奏と、そこに向かった何日間。

なにか大切な意味を持つことは出来たかな、と思う。
関わった一人一人が暖かい思いを持つことが出来たかな、と思う。
そして、できればそこにあったたくさんの事が「特別な一日」ではなく「普通の毎日」にあるようになると良いな、と思う。
もしくは「特別な一日」を「目指し続ける普通の毎日」だと良いな、と思う。

みなさん、心からありがとう。

1月
29
明日

いよいよ本番。第7回 吹奏楽フェスティバル in NAGAKUTE。
直前の練習で何処まで粘るか。何を粘るか。
いつも悩む。

アマチュアの青少年が目指すべき音楽の喜び。
自分なりに考えることあって、やることある、と思いなんとか実現しようとしているけれど、果たして本当に皆はそれを欲しているのか。
いつも不安になる。

特に今回はいつも以上に悩む。
選曲の難易度と練習時間の足り無さと、もっとこれをしたいあれをしたい何とか伝えたい、という自分自身の気持のせめぎ合い。
両者のバランスは取れているのだろうか。
 

もちろん、みんなとても真剣で一生懸命だ。
難しいことでも何とか応えようとしてくれる。
痛いほど良く分かる。
だからこそ、私自身の役割がきちんと果たせているかどうか、無性に不安になる。
もっと私に力があったら、もっと簡単にもっと楽に伝え、もっとすんなり実現できるのではないか。
ここに集まった全ての一人一人の中に何か一つでも「やって良かった!」と心から思うことのできるものを残せるか。
そして、聴きに来てくださった方々にそれを伝えることが出来るか。

ふぅーっ…。
さらにもう一度。作戦を練ってみる。