まだマシなのだが、暑い。熱い。
そしてなかなか風は吹かない。熱風すら。
この数日「エアコン入れない」決意はもろく崩れている。
道を車で走っていても、世の中がフラフラだということを実感する。
みんなボーッとしている。
みんな自分の事で精一杯。
周りなんか見る余裕無いから、スーパーの駐車場などは無法地帯。
信号はかろうじて機能しているが色の変化に人が対応しきれていない。
本当に大変だ。年を追う毎に。
風物詩としての「夏は暑い!暑いのが夏だ!」は既に過去の話だろうね。今はそんな悠長なこと言ってられない。熱いのだもの。
豪雨といい気温といい、今まで人間から受けてきた嫌がらせに対して、地球が耐えきれなくなって少しだけ身震いしているのかな、くらいの思いを持ちたい。もし本気で地球が怒りを発したら人間なんてひとたまりもないからね。
せめて風が吹くといいなぁ。
暑くなってきた。
昨日は耐えられなくなりついに午後エアコン入れた。
そしたら、今朝起きてとたんに体中調子悪い。腰は痛い、腕は上がらない、頭痛はする、…。
汗かきながら自然の暑さの中にいた方が調子は良さそうだけれど、かといって我慢しすぎて熱中症も嫌だし。悩ましいところ。
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ぼつぼつ、あちこちで始まる。
中学生だった昔から思っているけれど、あの独特の雰囲気はなんだろう?
呑まれないように突っ張ったり、敢えて呑み込まれてみたり、いろいろやってきたけど。
離れてみて思うには、やっぱりどこか変だ。
しょうがない事だとは思うのだけれど。
もっと根っこの部分から考え直さないと見えてこないのかも知れない。
10年はまともに行っていない。
何かって? (へへへ…。解る人には解るかな?)
久しぶりに最近何回か行ったけど、ちゃんと情報集め出したら、どうもちぐはぐ。
お店に行っても知らない物や事がたくさんある。
逆にどこにも無くなってしまったものもある。
当たり前だけどどんどん進化しているんだ。
とりあえず今は「ZERO」の情報をインプット中。あんなに細くて小さい物をどうやって扱うのか。きっと目が辛い。
それから10年前にはなかった「PE」を見てきた。これももう少し深めないと良く解らない。が、私の場合はいずれにしても「SALT」でだろう。
さらに、なかなか見つからない「BRETTON」。以前はさまざまなバリエーションあったのに。
エリア用のものばかりが異常に並んでいて、そういえば「HAS」も見かけないなぁ。
ふぅ。なんとか追いつかなきゃ。
をデジタル対応にして2ヶ月弱。
釣りビジョン(CSの番組らしい)というチャンネルをよく見るようになった。
それがきっかけで、いくつかの面白い発見があった。案外世界は狭いんだな。
ほとんどが1時間番組。30分でCMを挟む。
そのCMも半分は自社の番組のお知らせ。
地上波民放のような「提供」の表示はないようで、どうやって番組作るのか興味深いところだ。
もしかしたら番組自体が企業の協力(宣伝?)なのかもと思ったりするが、番組の中で露骨にメーカー名や製品名を告知するようなことはなく(さらっと「今開発中の〜〜ですけれど…」程度はあって、モザイクかかったりしてる!)、すっきりしてる。
様々な番組見ていて、釣り方や対象魚によって明確に釣り人の性格や雰囲気が顕れているのがおもしろい。
ただ、一番好きな、川の上流の方まで釣りに行く番組はなかなか無いのが少しだけ不満。でもしょうがないかな。これも少数派かも知れないし。
とにかく、いろんな釣りをしたくなってくる。
少しずつ釣りに対する気持が高まっていく。
いつものホームセンターに行った。
白点だらけだったニホンバラはほとんど処分されていた。可哀想に。
しかし新たにタイリクバラが入荷していた。
まだ背びれに黒斑点があるちっちゃな個体だったけど、元気そうだったので5匹ばかり入手した。
(本当はカゼトゲでも良かったんだけどひとまずタナゴの混泳は避けようかと。)
オスメスの区別は定かではないが、2対3になるのではないか、という期待をもって選別してもらった。
「貝は要りますか?」
と聞かれ、よく見ると確かに2枚貝売っている。
わざわざオスメスの選別を頼んだのだから、話の流れとして「貝もいるか?」と聞かれるのは当然といえば当然なのだが。その時は深く考えなかった。
まだまだ小さいやつだから、
「いや、まだいいです。」と断った。
失礼ながら、たかがホームセンターの観賞魚コーナーで、クロメダカならいざ知らず、タナゴやヨシノボリ、ヤマトヌマエビ、(もう売り切れてはいたが)ミナミヌマエビなど本当に地味な日本淡水魚を売っていて、しかもタナゴ産卵用の2枚貝も売っている。
そういえば、「タイリクバラ下さい」って言ったとき、担当者さんはまず意外な顔して、しかしすぐに嬉しそうな顔した様な気がする。この人日淡好きなんだなきっと。だから貝買って欲しかったんだ。タナゴ産卵用の貝だ、って解る人少ないに違いないから。
今は、元からいた色の出ている大きな奴に追いかけ回されたりしながら、元気に泳いでいる。
同じくらいの大きさまで育つと良いな。
40cm水槽に、100円均一で買ってきた猫よけシート(?)と鉢底網、エアコン室外機用のジャバラドレンパイプを利用して底面濾過の仕組みを作り水を入れてみた。全く0からの立ち上げだからか、二日ぐらいで水が白く濁ってきてしまった。
ポンプの威力が足りないかな、と思ってみるが今さら変えられない。
放っておけばそのうち綺麗になるかも知れないけれど、何か良い手はないか?
試しに、ヒツジグサが入っている睡蓮鉢の水(この水は不思議なほど濁らない:5年以上のビオトープ状態)をコップ一杯ぐらい入れてみた。
昼下がりに入れて今は6時間後くらいだろうか。既に水が澄んできている。
微生物の力ってすごいんだよな。生物濾過が機能してきたと思われる。
ここにはいずれミナミヌマエビ入れて抱卵させたい。
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7月に入った。折り返しだ。
今日は良い風が入る。
不思議なモンで、蛙はもうほとんど聞こえなくなってきた。
代わりに、フクロウの類と思われる鳴き声が聞こえてくる。
愛知万博の工事が始まった時に、パタッと聞こえなくなったんだが、今年から復活してきたみたい。
ずっと前から欲しい物があって(それはカメラなんだけど…)、その商品の口コミ掲示板を良く覗く。
そういったネットコミュニティには、つきものの「荒らし」とかが手変え品変え出現する。いつもそんなやりとりも興味深く見ているんだけど、先ほどある書き込みが目に付いた。それは「荒らし」ではなく誠実な書き込みと見た。
良い写真を撮りたいのか、良い画質の写真を撮りたいのかの違いとも言えますね。
一度さらっとスルーして、ん?と思い直しもう一度よく考えた。
この違い、日常のいたる所で出くわすぞ、と。
例えばこんな風に言い換えてみる。
良い音楽をしたいのか、良い音質の音楽をしたいのかの違いとも言えますね。
私自身は間違いなく前者だな。そしてそれは世の中の当然と思っていた。
本質を見極めるとはそういうことだと。
「良い音質」は目的ではなく手段だと。
まず第一義は良い音楽をしたい。もちろんそのためのそれにふさわしい音質は必要である。
しかし、それって、どうも世間一般と違うんだなって思う。
まず、一定の価値観(流行とか、中道とか、視聴率とか、風習とか、…)にはめられた基準(ここでいう画質や音質)があり、その中で活動が行われる。
その一定の価値観から逸脱するものは大概否定される。特に最近は全否定になってしまうことも。(ワールドカップが開催される直前のサッカー日本代表チームの評価のように。)
そのみんなが大切にしている小さな土俵の中でドングリの背比べが始まり、目糞が鼻糞を笑う茶番になる。いや、茶番といっては失礼か。それが心底営みなのだろうから。
イメージする音楽を実現するために必要と思われた音質が世間一般の価値と異なっている場合、ある人はその音質を受け入れられないことは容易に理解できる。しかしその場合、受け入れられない音質に固執してしまうあまりその先にある本来の音楽を見通すことができず、音楽そのもの(発想や過程も含めて)の全否定をしてしまう事が往々にしてあると思うのだ。
もし、音質のみが音楽の優劣を決めるのなら、SPレコードを転写したようなフルトヴェングラーやトスカニーニの演奏は随分価値のない物になる。
声質のみが音楽の優劣を決めるのなら、サッチモのだみ声は声楽的発声とはほど遠いから聴くに値しないことになってしまう。
順序が違うんだ、と思う。
その事はとっても危険なのだ、とも。
良い写真を撮りたいのか、良い画質の写真を撮りたいのかの違いとも言えますね。
「良い写真」ってなんだろう?
そこに行きつくのはとても難しいと思う。
だから、とりあえず「良い画質」にこだわってしまう。
「良い画質」は数値化や可視化あるいは言語化することが簡単だから。
そして、「良い写真」が必ずしも「良い画質」であるとは限らないことを忘れ、「良い画質」こそが「良い写真」の絶対条件になってしまうことは是非とも避けたいと思う。