4月
10
もう5年も前

だったんだな。WEBをさまよってこんなの見つけた。
名古屋ハイスクールバンド2005の記録。
このページの下の方「名古屋ハイスクールバンド2005 第30回名古屋吹奏楽フェスティバル演奏報告 (練習風景…)」あたりのリンクをたどってみてください。

丁寧に練習の記録を取ってくださっている。こんな記録は少ないから本当にありがたいことです。

そういえば、このときの本番終了後の記念写真をTSWに置いてきたかもなぁ…。

当時一緒にやったメンバーの噂を、それこそ風の便りで聞くことがある。
何とも嬉しい瞬間だね。

4月
10
再度

侵入者。本日の朝。
全く同じ所に同じように。

足跡これは足跡。

残留物残留物。

カラーだとあまりにリアルでグロテスクなのでモノクロにしてみた。
吐出物ではなく糞かもしれない。だとすると全くの未消化だ。柑橘系の臭いすらする。

実は前日、掃除して洗い流しさらにアルコールで消毒してみたのだった。
それが気に入らなかったのかしら?

4月
09
密かに

WEBコンテンツを追加しつつあります。
その結果、このブログページはそのコンテンツの一部になります。

何とか形が見えてきたので、いくつか入り口を作りました。
どこにあるか探してみてください。今までのリンクも新しい別のページへのリンクになっている場合があります。

携帯電話アクセスでも見ることは出来ますが、あまり綺麗に表示できないかも知れません。メニューは一番最後に出ます。
出来れば、PCやスマートフォンのような端末でご覧いただくのが良いかと。

どうか引き続きお楽しみ下さい。

4月
07
侵入者?

本日、朝ベランダにて、侵入者の形跡発見。

椿の木が伸びてベランダにかかっているのだけれど、どうもそこからの模様。
被害はない。いや、あるか。ベランダが汚れた。
形跡とは、なんと、吐出物だったから。
内容は全てキンカンの種が茶碗一杯くらいの量。

最近の観察により、侵入者はアライグマではないか、と推測される。
側溝にて足跡発見、調査によりアライグマと疑われる。
夜中、猫とも鳥とも違う鳴き声。
夜、自宅すぐ近くで車のヘッドライトに一瞬映し出された白い輪っかの尻尾。多分アライグマ。
存在は確実だろう。

ペットから離脱し、自然繁殖してしまった移入動物。
困ったものだ。

4月
06
「予定調和」

そして「会議あれども議論なし」
そうそう、そうだったなぁ。あそこは。
初めに結論ありきで、まさに会議は「アリバイ作りのセレモニー」だった。
 

さて。
先日、「アンサンブルしても面白くないんです」という話を聞いた。
下手じゃないんですけどね、という言外の言葉があったようななかったような。
「でも、別の○○とやると面白いんです」

詳細な状況がわからないから推測の域を出ないけれど。
たぶん原因は何かわかる気がするよ。

面白くないアンサンブルというのは、議論のない会議みたいなものではないのかな?
退屈で時間がもったいない、とか、決まってるんだったらやる意味無いじゃん、とか。
白熱した議論をするんだったら戦い負けたくないし、同調して盛り上がるんだったらそれはそれで楽しい、のに。

根は深い。
私にとっては「面白くないアンサンブル」と「議論のない会議」は同義なのだが…。
少なくとも、そこにドラマは無い。

追記
決して収束しない平行線の議論も勘弁だ。議論の意味はない。
(あそこのように、初めに結論ありきだとせっかく議論の場を設けても聞く耳持っていないからな。)

4月
05
睡蓮鉢

が玄関先にいくつか置いてある。

一番大きな鉢にはヒツジグサが入っていて、昨年の夏はとても調子よく毎日花を付けていた。未の刻に花を付けるのでこんな名前がついたのだとか。以前はチャワンバスも入っていたのだがいつの間にか消滅しちゃった。
もう一つはコウホネ。たまに黄色い可愛い花を付けていたが最近は咲かない。手入れ悪く株が弱っている。
少し背の高いのにはヒメガマ。これも最近はガマの穂付けない。手入れが悪いのだ。
とうとう冬に凍って割れてしまった濃いピンク色のヒメスイレンの鉢は、素焼きの普通の植木鉢に植え替えてブリキのバケツに沈めてある。緊急避難だ。
 

さて、このうちヒツジグサとコウホネが、何故だか水がこぼれたように周りが濡れている事がある。
最初は雨が降ったか、と思っていたけれど、そこだけに降ることもあるまい。

状況からして多分、鳥が水浴びをしているのだと思う。
どちらも水の深さがそこそこあるから、スズメとか小さい鳥ではなく、もう少し大きいのではないかと。
しかし、なかなか目視確認できない。
家の中かからでは死角で見えないのだ。
ずっと外で待っている忍耐力もない。

ヒヨドリか、ムクドリか、モズか、…ハトかも。
カラスではないと思うが。

本当はそこにメダカを入れたい。
入れて良いものかどうか、このところずっと迷っている。

4月
04
モモ

果物の桃ではない。

ミヒャエル・エンデの同名の作品。日本では児童文学というジャンルに分類されるのかな。
時間泥棒とそれを取り戻そうとするモモのお話。
この辺りの説明が私の印象と一番近いような。
映画化もされている。「はてしない物語」と違い思いのほか原作に忠実だ。といっても限界はあるけどね。

蛇足ながら「ネバーエンディングストーリー」と「はてしない物語」は似て非なる物でしょう。

その中に、急げば急ぐほど遅くなってしまう場面がある。
追っ手に追われ焦って先を急ぐほど追いつかれてしまうのだ。
その時は、逆にゆっくり歩くと良い。ゆっくりになればなるほど先に進む。

==
とても天気が良く、桜満開で、しかも近くの公園の桜祭りイベントで火縄銃の模擬連射が続きそうだったので、避難がてら音響シャイなせろりをドライブに連れ出したのだった。

道すがら、桜も満開だったが桃も満開で見事だった。
で、「桃源郷」って意味は判るけど、桃の字を使うのなんでだっけか?とか、仙人って良いなぁ、とか、とりとめもなく様々なことが頭の中を巡り、ついには、エンデのモモを思い出したのである。

そして、
「自分の中に流れる時間は、どんどん遠ざかっていないだろうか?」
「必死に(身の程忘れ)流れを取り戻そうとしていなかっただろうか?」
と考え、次に、ようやくそんなことに思いを巡らせることが出来る程になってきたかもね、と感じたのだった。

桜は満開。
うじゃうじゃと人間がその花の下に群がってくる。
そして昔聞いた台詞を思い出す。
「桜の花は毎年新品です!」

4月
03
TEAM

の素晴らしさ。

ずっと、私は人に物を頼むのが下手だった。(今でも下手だと思っているけれど…。)
というよりも、人に頼むより自分でやってしまった方が早い、と思うことが多かった。
大概のことをやってしまえる自信もあった。
しかしそれは自分の手に負えない事態が生じるとすぐ放棄してしまう危険性も持ち合わせていた。

高校生を相手にすることが多くなったとき、しかも吹奏楽部という途方もなく作業量が多い活動を始めたとき、出来ないことを放棄することは許されないから、如何にして自分が楽をするかを考えた。
たくさんの仕事をこなすために自分以外の人に動いてもらう他はない。
そうやってみると、人を動かすというのは難しい。物事は思うように進まない。
自分が望む動きをしてもらうためにはあらかじめ「教える」事をしておかなければならないことに気が付いた。

それが苦労の始まりだった。
なぜなら、1つの作業を覚えたらそれでお終いではない。「作業」を教えるだけでは、延々と新しい「作業」を教え続けなければならないから。教えることはねずみ算式に増えていく。

そして行きついたのは、作業を「考えること」を教えることだった。

その根底には、私の師匠のなんてことはない雑談のひと言が大きく存在している。例えば、社会科の授業で「石油生産世界一位の国はどこか?」を覚えさせるのではなく、どうやったらそれを調べられるのか? を教えるべきだ、といったようなことだ。「だってそれは時代が変わればどんどん変わってしまうだろ?古い情報にとらわれて判断を見誤るぞ」

万事解決か、と思ったが現実はそれによりさらに苦悩は増えた。
一挙にハードルが高くなったのだ。「考える」ことの訓練は生半可ではない。しかも世の中の風潮はそれとは違う方向を向いている。
しかし、「教え」「育てる」ことはそういうことなのだ、「生きる力」をつけるとはそういうことなのだ、と年月を重ねる毎に思いが確かになり、以来ずっとそれをやり続けている。

その甲斐あってか、自分以外の人が何を望み、その為に何を為すべきか考え、さらに自分自信も満足できる言動ができるような人材が少なからず育っていった、と密かに自負している。
 

そして今。
そんな人達とTEAMを組める。
なんという信頼感。
心底「任せた!」と言ってしまえるのだ。
だからこそ、思いのまま自由に活躍して欲しい。
それぞれの思い描く理想に向かっていくことが、即ちTEAMの理想に繋がる。

幸せだと思う。
TEAM NGO!

4月
01
4月になった

世の中、様々なことが更新される時期。

さて。私も。
しかし風の吹くまま、気の向くまま。

何処かで行き倒れたらその時はその時。
今までだってその可能性は十分あった。
…夜の東名高速道路で一度も居眠り事故に遭わなかったことは本当に不思議で奇跡だ。…

でも、今私はここにいる。
そして、やりたいこと、やって欲しいといわれること、あるいは、やるなといわれること、を一生懸命やったりやらなかったりする。
たったそれだけのこと、なのだろう。
しかし、たったそれだけのこと、がどれだけ大切なことか。

3月
31
久しぶりに

一つのアマチュア演奏会を最初から最後まで聴いた。

一生懸命だった。
やはり、それは美しいと思った。
堅さ、甘さ、不完全、流れの悪さ、等々、様々課題はあるけれど。
アマチュアの良さ、ってそういうところじゃないのかな、って改めて感じた。
考え、苦労し、工夫し、あきらめない。
その大切さは良く感じられる舞台だった。

だからこそ。
私は欲が出てしまう。
もっと出来るのに、って。
見ていると、もっと欲張ってみたら、と歯痒くなってしまう。
なかなか、それが噛み合っていかない現実もあるようで、難しいのかな。
 

以下は演奏会の感想ではない。
帰りの道すがら車の中で考えたこと。
===
たぶん、知らないのだと思う。
夢を持たない、のではなく、夢とは何なのか。
たぶん、面倒なんだと思う。
夢を叶える、ってことは簡単なことではないから。

それはバブルだとか草食とかそういったことではなく、単純に、誰も教えていないだけだと思う。教えることができる人がいないのだと思う。
だから、やり方を知らないままなんだね。

「遊ぶ事が出来ないんだ」と昨日テレビで誰かが言っていた。
やっぱり遊び方を知らないんだろう。ちまちま遊ぶんじゃなく、でっかく遊ぶこと。
いや、それとも、無駄なことに心底エネルギーを費やすことなど全くの無意味に思えるのかもね?
そもそも、音楽なんかまったく無駄なものだろうに。

全く無駄だからこそ必要なんだ、という矛盾を受け入れる大らかさが無い、ということなのかも知れない。