愛知県の文化施設でJAFRAアワード受賞館は二つ。
うち一つで先週、吹奏楽フェスティバル。
今週は、もう一つでジュニアユースウィンドアンサンブルの発表会。
双方とも吹奏楽での関わりで、中身は青少年の育成を期待されている。
活動はとても先進的で有意義な取り組みだ。
そんな立派な意識を持っている方々(他の出演者や指導者、主催者)と練習、本番の合間、終演後などおおいに話しをした。
話題の多くは、「(育てることが)なかなか難しくなってきた。」の一点に絞られる。
昨日のこと。
本番中ホールの中で電話をかけている親がいたそうだ。周りの人(同じ観客)が注意すると「なんでそんな事あんたに言われないかん!?私の勝手でしょ!」だったそうだ。
特に最近多いらしいが、かといって最近の親世代が…、ということでもないらしい。
和太鼓のリサイタル、遅れてきた老人が演奏中、中に入ろうとしたので「演奏中の出入りはご遠慮ください」って丁寧に注意したら「俺は客だ!入れろ!」
そんなこんなの多すぎる障害の中で、健全な青少年育成を本気でやろうとしても自分の無力を思い知るだけで苦しい。本来やりたいことに行きつく前のトラブルが多すぎる。
だから、学校現場はほとんど諦めているようにも見える。何かあれば即教員の責任を問われ学校の見識を問われ足をすくわれる。誰だって痛い目には遭いたくないから差し障りのないところまで。
話していくうちに、学校教育ではなく、もっと別、社会教育の範疇での対策のほうが有効なのかも、と思うようになってきた。
しかし個人の力だけでは如何ともし難い状況まで来ているだろう。
何かもっと大きな組織的な動きが必要なんじゃないか。
で瓦解。
ビジョンを確認出来ない集団は目的を見失い、志を忘れ、耕作放棄農地のように急速に荒れていく。
手が出せないのだから致し方なし。
「ザルで水を汲むみたいなもんだ。ほとんど不可能かもしれないけれど、やり続けていたら、ゴミや水ゴケでザルの目が詰つまり、少しは水も汲めるようになるかもしれない。それを信じてやり続けるしかない。しかし、とても大変だし時間がかかる。」
少しでも手をゆるめるとたちまち汲めなくなるんだな。しかも自覚症状が無い事が多い。
いや、汲み続けていてもそれは単に無理が重なるだけなのかもしれない。しばらくすると突然拒否されてしまったからね。何度も。
ということは、所詮叶わぬ夢を見ただけなのか。
新聞より。
「何でも時代のせいにしてりゃあ、そりゃあ楽だわな」。 〜中略〜 「時代」を「他人」あるいは「世の中」にしても、その意味はほぼ変わらない▼何でも自分以外の「せい」にしたがる甘えと未熟が、凝縮し、暴走したのがこの事件だっただろうか。
あんな大きな重大事件(秋葉原でおきた無差別殺傷事件)でなくても、この事に起因するトラブルは日常頻発する。しかし1つ1つはほんのちっぽけな事件だから、当事者はその重要性を認知できないまま見過ごしていってしまい、いつの間にかさらにトラップの奥深くまではまり、結果取り返しのつかない所まで発展する。
なんといっても「〜そりゃあ楽だわな」だからね。大概、人は楽な方へ流れる。
もひとつ。
「倹約に努める美徳的な行動が、まとまれば結果として人々の生活をさらに脅かす。浪費や美食など、多少の悪徳を許して刺激しないと、経済は生きていけません」
うーむ。多少の悪徳か。有る意味、文化はそれだな。
決して直接的ではないけれど、文化が豊かになることによって脅かされる生活から逃れることが出来る。即ち、人の生活が(心が)安定していくのだろうから。
長く続いているなぁ。
地元の吹奏楽フェスティバル。継続は力なり。
回を重ねる毎にパワーアップしていると思う。
多くの賞賛の声をお寄せいただいた。
「演奏者の素晴らしい顔に感動した」
「参加者全員の大勢での演奏、というだけで感動していたレベルから、音楽としての感動に変化しているよ」
参加した生徒が、わざわざ私のところまで駆け寄ってきて
「音楽って本当に楽しい、って感じました、ありがとうございます!」
なんといっても地域力だと思う。
そして毎日地道に現場で活動している方々の努力の賜だろう。
世の中、事業仕分けで大変なのに「来年もよろしくお願いします」と言っていただける。もっとも仕分けられそうな文化教育事業なのに。
行政、教育、地域、家庭、それぞれの文化に対する熱意、それらの連携、さらに啓蒙の努力。
そんな背景があってこそ、演奏直後のみんなの顔が素敵に輝いている。
この瞬間は何にも代え難い。心の宝物だ。
携帯電話の着信音を鳴らす設定はずっとしていなかった。
マナーモードでバイブ、しかも短い時間で。
しかし、そろそろ変えようかと思い少し手間をかけてみた。
何が素敵か、いろいろ考えて思いついた。鳥の歌にしよう。
沢山のデータをWEBから手に入れた。着信音に使うにはご自由に、というところからダウンロード。
自分の鳥知識のためにも何度も聞き比べてみた。よく知っている鳥から何度聞いても違いがわからない鳥たちのものまで。
キャンプ場の夜に聞こえてくる不思議な鳴き声はトラツグミなんだな。
以前、自分の曲を着信にするのにmidiデータをそのまま携帯で使えることに驚いたが、音データは着信音として使うには随分手を加えなければならい事を知った。
まず手に入れたデータ(mp3だったりした)をwavに変換してからサイズやゲインの変更、エフェクト加工をして、docomo・iモーション用のファイルに変換し、さらに一度WEBサーバーに上げ、再度携帯でダウンロード、保存する。
電話やメールの着信音として様々登録して、携帯が鳴り分けるのを、何となく、いや、密かに、待ち遠しい自分がいる。
うっしっし…。
バーダーっぽいことが出来るようになってきた。
家の近所でツグミを見た。
メジロの群れが街路樹を行ったり来たりしながら木の実をついばんでいる。
セキレイとセグロセキレイはあまり警戒心なしに地面をちょこちょこと移動している。キセキレイはまだ見てない。
シジュウカラが団体で賑やかにやってくるのを見つける。
ジョウビタキはだいたい単独行動だ。
コゲラが木の幹に止まり、あちこち突きながら動き回るのを見る。
少し遠出してカワセミの出現ポイントを見つけた。ダイブして魚を咥えてくるのを観察できる。鳴き声も聞いた。
実はもっともっと色々見ているのだが、まだ種類を確認できない。
ちらっと双眼鏡をかすめた像の記憶を頼りに、図鑑を開き「これかな?いや、こっちかな?」と悩む。
こんな人が多い場所なのに意外に鳥の種類は多いようだ。
よく知っているヤツだって書き出せばそこそこの数になる。
スズメ、ハト、カラス、モズ、ムクドリ、コサギ、アオサギ、ケリ、ヒバリ、ウグイス、トビ、ヨシキリ、カルガモ、カイツブリ、…。
その豊かさを忘れないでいたいと思う。
鳥だけじゃない。虫も。植物も。生きているのだもの。
自分。
自分だけが知っている自分。
自分も他人も知っている自分。
自分は知らないが他人が知っている自分。
自分も他人も知らない自分。
自分が自分をより知るためには、既に知っている自分の事以外を知ろうとしなければなかなか難しい。自分のことなのに。
では、自分のことをよく知ろうとしない人は、他人をどれくらい知る事出来るか?
主体を入れ替える。
「自分」を「特定の誰か」に、「他人」を「自分」に読み替えて、上記の4つを考える。
「特定の誰か」に対して一体どれだけの事を自分は知っているのだろう?
よく知ってるよ!、と言えるのだったら凄いなぁ、と思うけれど、いや、ちょっと待って。
本当に知ってる?その「特定の誰か」しか知り得ない全ての事までも知ってる?勝手に知ったことにしていない?
誰も他人が知るはずのない自分を持っているだろうと思うけれど、であるならば、当たり前だけど他人の事を全て知る事は出来ないことになる。
いや場合によっては知る必要もないと言っていいのかも知れない。
ではどうするか?
「知る」事から一歩進み「信じる」事になればいいのかも?
大学の推薦入試などの場合、あらかじめ書いた自己推薦文を提出することがある。当然内容の優劣により入試の合否に影響する。
しかし、その内容を本人が書いたかどうかななんてどうやったら判る?
同様に絵画や写真等のコンクールで作者の本人確認はどうするんだろう?
小論文指導と称して、結局教員が全て書いてしまう場合があることを知っている。
高校生弁論大会の原稿を本人ではなく教員が全て書いて優勝した例を知っている。
教員が書いた「書」(書道作品)を、現役高校生として出品し全国コンテストで入賞した例を知っている。
確かに、誰かが肩代わりして上手く事が進んでいけば、首尾上々な気がしてくる。
実績という目に見える成果ができあがる。
助けてもらった者はとりあえず欲しかったモノが手に入る。
助けた者はなんだか優越感に浸れる。
でもね。私はそれでは「生きる力」を育てたことにはならないと考えるのだが。
助けてくれる人がいなくなったらどうする?
助けてもらい簡単に「欲しいモノが手に入る」事に慣れてしまった後に、ハシゴを外されるように助けてくれなくなったらどうする?
その点、バンド指導は誤魔化し(本来やるべき人がやらず指導者が肩代わりすること)は効かない。
効かないどころではない。コンクール等では指導者自身が評価の対象になり採点もされる。(このことは本当に特異だ。スポーツでも監督としての評価はあるだろうが、パフォーマー・プレイヤーとしての評価は有り得ない。ましてやその事が勝敗の直接原因にはなりづらい。)
だから常に真剣勝負だ。
内容に対しても。
人に対しても。
特に人に関しては生身の人間同士がぶつかるんだから美しいはずがない。
端から見ているととてもエグイだろうな、と思う。
いたたまれなくなるのかも知れない。
そうすると、困ったことが起こる。特に最近著しい。
自称正義の味方が現れ介入を開始する。
さらに、自称正義の味方は感情に訴えやすいから、世の中が味方につきやすい場合が多い。
味方についてもらい(多くの人に)賛同してもらったと力を得た気になり、自称正義の味方は人助けをしたと大きな優越感に浸る。
双方何らかの結果を得て、首尾上々、と相成るわけだ。
ま、その時はそれで良いのかも知れない。
しかし、結果、手足をもがれたように「生きる力」を得るチャンスを失い、助け無しでは生きていけない自立不能な人をつくることになってしまうと思う。
さらに、最大の問題は、本人がそこに気が付かない、そこに行き着けない事だと思う。
あっ、知らぬが仏、という言葉もあるなぁ。
いつかそれに気が付けば救われるかもしれないが、その時では手遅れの場合も多いだろう。
かくしてまた一つチャンスを失うが、誰かがコントロールできることでもない。そういう定めなのだよ、きっと。神様仏様の思し召し。