1月
09
散歩

少し前まで犬の散歩は夜中だった。

毎日毎日土日も祝日も全く休み無く必死に音楽を成り立たせようとしてもがき、片道65kmの高速道路通勤を渋滞でへろへろになり、ようやく家に帰って随分遅い夕食を取っていると、
「さぁ、今度は私の番だよ!」
と、しっぽを振りながら横に来る犬。上手にお座りをしてじっとこちらを見る。
鼻つんつん攻撃。
アゴ乗せ攻撃。
握手攻撃。

「そだよな」
とリードを付け外に出る。もう日付も変わっているが自分の健康のためにも歩かなきゃ、と。
しかし、その後はほとんど盲導犬状態。
歩きながら寝る。どこを歩いたか記憶はない。
家に帰ってきた意識はなくそのまま朝まで寝ている。

少し前まではほとんど毎日がそうだった。
そんなにしてまで何を守ろうとしていたのか。

今日、久しぶりに夜の散歩してその事を思い出した。
もう遠い昔のようだ。
守ろうとした意味はあったのか。

1月
07
さて

どうするつもり?
何事もなく物事が進むとお思いか?

超強力形状記憶合金はほぼもとの形に戻ってしまったよう。
一度覚えてしまった勘違い形状を修復するために、常に加え続けていた力が及ばなくなってしまったから、だろう。

ストレスが無くなって喜んでいる者もいるかもね。

そうなってしまう原因は全く違うけれど、ほぼ1年前と変わらない。
しかし、毎日その場にいて持ち得る全てのエネルギーを注ぎ込んで何とか凌いでいった状況とは根本的に違う。

今はその立場ではないし、何より無駄金らしい。
そうそう、私もバイトが忙しいし。

このWIND MESSAGEもなかなか届かない。風向きが悪いのかな。

1月
04
表現

明後日が本番らしい。

年末にレッスンして、年明けて今日、再度レッスンに行った。
見違えるようだった。
自分たちの表現をしようとしている意図が良くわかった。ただし、その段階まで行くと技術の不足が目立つようになる。
個人の、アンサンブルの、さまざまな種類のテクニックが必要になる。それを1つ1つ説明しながらメンバーの相互理解を深めていった。
やればやるほど格段に良くなっていく。

こんな練習はどんどん欲が出るね。
明日も行くことにした。
細かいダメをどんどん潰しておいて。
まだまだやるべき事、出来ること、沢山ある。

1月
03
デフレスパイラル

定価の3割引きだな。いや、半額でも良いのかも知れない。

クオリティの本質は求められていないように思う。
だいたい。
そんな感じで。
それっぽければそれで良し。
それで、良いんじゃない?
無理すると、誰も見向きしてくれなくなる。
だから、とりあえず今回はそれで行こうと思う。

みんながみんなそうではないと思うけれど。
無理して高額な商品買って、それを生かせず結局は無駄遣いになるのなら、激安なもので充分なんだよ、きっと。
そして、デフレスパイラルは加速する。
気がついたときには人の心にとって大切な何かを失ってしまうんだろう。

大切なものは割引では買えないし、なによりその価値を見いだすことすら出来なくなって、いっそう、忘れられていくようだ。
でもこれからもずっとそうだとは思わない。なぜならその価値は人類の歴史とともにずっと有り続けているから。見失う場所があり見失った人がいて見失った時代であっても必ず再評価される。それは人には必要だからだ。

大切なものとは、たとえば「心の贅沢」とでも言おうか。
しかし、魯山人を万人が受け入れるわけではないだろう。そんな価値観必要のない人もいるんだ、きっと。

1月
03
年末の

散歩中、電柱の上から「カァ、カァ、カァ」と明確に三回呼ばれた。
いや、本当に呼ばれたかどうかは判らないが、そんな気がしたのだ。だいたいいつもそんな感じだ。

だから、年が明けたらカラスに会いに行くことにした。そこそこ遠方だが、車中泊をしながら無事朝早いうちに訪れることが出来た。途中カメに合いそびれたが…。

先回会いに行ったときは何故か叱られた気がしたが、今回はとても気分がよい。キツネと疎遠になったことも報告した。
もう少し落ちついた時期に行く方が良いのかも知れないなと思いつつ、しかし、今来るべきだと思ったから来たのだ。やっぱり来て良かった。
何度目のアリだろう。ここに来るとほっとする。
 

始めて訪れたときからすると、付近が随分綺麗に整備されている。道も広がったし。
空はほとんど雲が無くぽかぽかの晴天。
訪れた後、クマの川にイヌを連れて行き少しだけジャブジャブした。足を流れに付けて「もっと遊ぼ!」という顔をしたが、いくら何でもここで泳ぐには寒すぎる。「もう行こうか?」と声をかけたら水が冷たかったのか素直にしたがった。

帰路、赤い腹を見せて海の中に横たわっている巨大な物体を見た。こりゃ大変だ。

1月
01
新年

明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。

2010年が始まる。
外は雪。
既につもっている。
明日、日が昇るとすぐに融けるだろうが。

しかし、寒い。
寒い中、新年早々しばらく行方不明になろう。

12月
29
暮れる

1年が暮れていく。

今年も色んな事があったな。
面白い一年だった。
そして、どんな事も自分に帰ってくる。

ある人に「激しい生き方だなぁ」と言われた。
自分では全くそんなこと思っていなかったから、言われて意外だった。

だったら「穏やかな生き方」ってなんだ?

最近ますます肩や腕が痛い。痛さで夜中目が覚める。ちょっとした動作の中で激痛が走る。
いつかその痛みから逃れることが出来るのかどうか知らないけれど、少しずつ判ってきたことがある。
この痛みを抱えて日々過ごすしかないんだな、と。激痛が走る度に「痛い!痛い!」と叫んでも痛みが和らぐことはないのだから。
いつか痛みが無くなる事と、今痛みに耐える事は、全く別物なんだと考えることにした。
であるなら、今痛い事を不幸に思うのではなく当たり前に受け入れてしまって、痛みを含めた日常を工夫したほうがはるかに気分が良い。

私は私だ。
それ以上でも以下でもない。
未熟である事は確かだが、しかし激しいのか穏やかなのか大差はない。

来る年がどう展開するか、さまざまな関係の中で自分がどう考えどう感じるか楽しみだ。
その前にあと二日。もう少し自分の中で今年のまとめをしようと思う。

12月
15
行進曲

を書き終わった。最近にしては珍しく、随分無理をして夜なべを繰り返した。

そして、とにかく昨日楽譜を渡しに行ったが、ご本人には会えなくて受付に託した。
とりあえずのスコアとパート譜。練習に入らなきゃちゃんと演奏できないもんね。

すぐ連絡きた。
「8分の6じゃん。」
「そだよ」
「…う。…リズム、…がんばります。」
「演奏会、いつだっけか?」
「12月23日だよ」
「うわ。近いね。がんばってね。音域も高くないし、そんなに難しくないと思うよ。細かい直しをした楽譜すぐ作るからね。」

数年前も曲の依頼をいただいた。定期演奏会のアンコール用の曲。
「3年生が、ソロでリレーできる曲が欲しいんだ。最後のステージの最後の曲だから。」
「あ、お涙頂戴やるの?」
「うん。だめ?」
「いや、良いよ。」

行進曲を頼まれたとき、既にそのことはまったく忘れていた。言われて思い出した。「LastStage」ってタイトルのバラード。
「あの曲、まだやっているの?」
「…。もうそろそろお涙頂戴やめないと、と思っているんだけど、止めようとすると生徒が怒るんだ。」
「そっか。気に入ってくれてるんだ。良かった。」

実は演奏を一回も聴いたことが無い。
そうだ。マーチの初演を聴きに行こうかな。2009年12月23日愛知県勤労会館。アンコールまで居れば2曲とも聴ける。

12月
14
緊急な電話

日曜日のちょうど正午頃、ケータイが鳴った。
「ちょっとトラぶってます。楽譜が入れ替わっていて、バスーンの楽譜なのに中身がクラリネットです。至急正しいのを持ってきてくれませんか?」
「え、それは申し訳ないです。今どこですか?」
「栄の明治屋のむかえです。2時頃までリハしてます。そのあと本番です。」

…えっ!
えらいこっちゃ。
今リハ?
今日本番って?
時間無いじゃん!
あわてて楽譜をFINALEで立ち上げ、パート譜の確認。
あれ、ほんとだ。中身入れ替わっている。
原因解明は後回し。間に合わせなきゃ。

ということで楽譜を読み込み直し、印刷し、即、車で出かける。
高速道路を乗り継ぎ、栄に出る。12:40着。
しかし。まだ営業時間じゃないから店の入り口が開いていない。
電話したってリハ中だから出ないよなぁ。
どうやって入るんだ?

人に聞き、地下駐車場の入り口から下に降り、事務所に。
やれやれ、やっと行きついた。お店の関係者の方にことづけて楽譜を渡し、一件落着。
時計を見ると12:50。
ま、無事にリハできたかな。
帰り際、ゆっくり店の入り口見たら、それっぽいポスター貼ってあった。ここライブハウスなんだけどな。オケもやるんだ。

しかし。
今日が本番とは知らなかったぞ。
ここで本番とも聞いていなかった。
本番数時間前のリハで始めて楽譜の不備がわかったのか。それも凄いな。
(いやいや、ミスはこちらだ。なんとか危機回避はできたようで…。ご迷惑おかけしました。)

たまたま、家にカンヅメで、曲書きしてたから良かったものの、外に出てて、それこそバンドの練習なんかしてたらどうやって対処できたんだろう。冷や汗が出る。とにかく急ぎの仕事だということで、細かいこと何も聞かずに受けちゃったけど、これからは気を付けよう。

家に帰って原因究明した。
FINALE2009 の新機能、パート譜の管理の落とし穴。
特にあわてて何回かパート譜作成をやり直すと陥りやすいミスだと言うことが判明。
これも気を付けよう。

世の中スリリングだ。

12月
11
パート譜の向こう

言うまでもなく、パート譜とは楽譜だ。しかし、それぞれのパート譜だけではいきなり曲の全体像を掴むのは難しい。
パート譜に書いている全音符一つの裏側に何があるのか?楽譜には本当にただ一つの全音符しか書いていないのだから。

しかし、熟練たる演奏家達は、一度皆で合わせてみたら瞬時にその意味を見抜いていく。
さらに、音を出す瞬間で様々な音を聞き取り、互いに演奏者の様子をうかがいながら、すべての状況を判断し決断し音を出していかなければならない。作曲家の特徴、時代のスタイル、合わせているメンバーの性格によっても判断基準は変わる。
その結果見事に的確で必要不可欠な一つの全音符が実現する。

その裏付けには、それまでの途方もない努力とため込まれた情報量が必要だ。
 

昨日、頼まれて書いた楽譜の音出しに付き合った。久しぶりのプロフェッショナルな音出しの現場はとても有意義だった。
練習も面白かったが、速いピッチで進んでいく練習を眺めながら、「そうだよ、この状態は音楽家にとって当たり前なんだよ。」と思った。「これが出来なきゃ仕事にならない。」

この状態とは、自分の目の前にあるたった一つの全音符から、その音楽の全体像を正確にしかも瞬時に推測し他のメンバーに音として提示し、万が一違っていたら次には訂正が完了する。相手はそのミスをとても寛容に許容する。
その一連の作業はそれぞれが誰に頼ることなく、一言も発せず水面下で行われるから、音楽に詳しくない人が見たところで何が行われているか皆目検討がつかないだろう。
皆で声に出して確認することは本当に肝心なポイントだけ。
 

アンサンブルの意味を良く問う。
如何に、目の前のパート譜から全体を見極め、参加し、一体になるか。
しかし、いきなりその状態になれない。
必要なのは才能ではなく、目指したいと思うこころざしと、日ごろの努力だろうか。少なくとも試行錯誤は必須だろう。