11月
24
すべて終了!

「はい。今日で直すべきところは全て直しました。次は6ヶ月後にまたお越しください。」

やったぁ!
始めてかも知れない。歯医者に終了まで行き続けたこと。
これで虫歯は無くなった。
親知らずは手をつけていないけど「不都合出たら抜きましょう、それまで様子見です。」だそうで。
いずれにしても、しばらくは大丈夫と思う。

1つずつ区切りがついていく。
準備は大切だ。
次のために。

11月
24
事後処理

は、ほぼ完了したと思う。

立場上しておくことは全てこなした。
様々な穴が空かないための手当、手配。
必要な情報の提示。
こちらの意図。
それらを全て受け取ってもらえたかどうかは不明だが。

感情的な部分でも概ね整理済み。
もちろん一粒一粒への想いは数限りなくあるけれど、それはそれ。別のことで考えていけば、と。

そろそろ2本線(必ずしも片方が太い必要はないだろう…)を引く時期かと。だらだらとCodaを引き延ばしても冗長で退屈だ。我々のやっていることは、有線放送のように延々と勝手に音楽が流れ続けるのとは違う。

そして、改めて次が始まるのならそれも良し。そうでなければそれもあり。
馴れ合いだけはご勘弁を。
 

年末ジャンボも発売開始したし。
熊野詣でに行こう。三山フルコースで。

11月
23
日誌の

コメントの裏側。

11月21日のレッスン時に少し詳しい話をしようと思っていた。しかし、練習の内容はそれどころではなく、時間延長してもなお3楽章を一通りレッスンしていくことで精一杯だった。だから、するつもりだった話はしないままレッスンは終わった。

最近は誰もが便利に使うインターネット。特にケータイを巻き込んでブログなるものが発達してる。勘違いが多いが通常これは全世界に向けて公開が前提だ。いつどんな人が覗きに来ても良い。希に自分のブログを知らない人が覗きに来た、と怒る人がいるが、それはファミレスで大声で会話して、見ず知らずの隣の人に聞かれ笑われた、と怒るのと同じだ。怒るような内容を公衆の面前で喋るほうが悪い、と思っている。

出来なかった話をいつ伝えようか、と考えたとき、次は1ヶ月ほど先なんだよな。また同じように話をする時間はないかも知れないなぁ。じゃぁ、その次は?いつ?
みんな何かと忙しいから、なかなか上手くいかないかもね。

手遅れにならなければいいのだけれど、と強く思う。
(私の思っている優先順位と違う場合もあるだろうから「何が手遅れか」は、人によって違うかも。)

何の事やらさっぱり判らないかもね。
でも、今までにたくさんの事例を示してきた。着目点のヒントも、具体的な策も提示した。実際ギリギリのところでなんとか解決できたことも一つや二つではない。
もちろんその1つ1つの事例そのものを見直しても判らないだろう。それは個々の問題だから。
そこで行われた思考の方法やパターンの数々が何かの力にはなるかも知れない。

当たり前だと思っていること、出来たと思っていることは如何なる場合でももろく崩れ去るかもしれない、という想定はしておくべきだ。そして、そんなことにしたくないのならば打てる手は打ち続けるべきだ。
逆に、それで構わないのなら、ここで書いている事は無意味で全く必要はない。
 

このところ続けて書いているWIND MESSAGEの内容は、実は連続している。
そして主語が省略されている場合がある。
対象を明言していない事も多い。
(公衆の面前だからね。)
しかし、風任せとはいえそれなりに重要な発信はしているつもり。
(わかる人が判れば良い、というスタンス。)
 

ということで、誰もが一読して判るようには書いていないのでした。
(自分でも十分承知なんだよ、読んでも良く解らないからアクセス少ないんだって。)
 

譜読みって大切だよな。

11月
22
おあずけ

を喰らった2年の日誌。残念だったね。

判るかな、そういったことの1つ1つが緩んだネジなんだ、ってこと。

 

最後二つを舞台裏で聴いた。(本当はもう一つ前に興味があったんだけど間に合わなかった。少し残念。)
その二つを聴きながら、昨日の練習も思い出しながら、何が出来て何が出来なかったか、どんな要求は妥協できなくて、容認できるのはどんなミスか、少し整理してみた。

そして、舞台裏に座り、素晴らしいサウンドを聴きながら、自分がこだわってどうしても譲れない部分について、見事にスルーしていく演奏なんだと思った。二つとも。

それで、自分は何をしようとしているのか見えてきたような気がした。
そして、「やはり間違っていない」と思った。何故かは判らない。何か、もはっきりしない。
しかし、それは「思った」というより「確信した」に近い。もしかしたら「降りてきた」のかもしれない。

その数時間前、自分達TSWの演奏は自分の中に何かしらハマルものはあったからだろうとは思う。
何度か肩と腕に激痛が走り棒を落としそうになりながらの演奏だったが、落第にはならずに済んだように思う。

ま、いずれにしても信じてきた道をさらに信じて前に進み続けよう、と再確認した。
そして、かけがえのない一粒一粒の宝石たちへ、で締めくくった日誌のコメントを思い返したのだ。
 

−−あっと。2年はおあずけだったね。緩んだネジを締め直したら、またそのうちに。

11月
21
ネジ

今日のTSWレッスンのはじめに、指揮者イスの高さ調整ネジが1つはずれた。
背の高いイスだが、5本足だから1つはずれてもすぐにはこけることなく大事には至らずに済んだ。

先日も、リビングで寝っ転がっていてテーブルの脚と天板を留めるボルトが全く外れているのを発見した。
少しゆるんでいる、ではなく、全く締まっていない。

元々はドライバーやスパナで硬く締めていたはずなのに。

長い時間、少しずつの振動や衝撃が加わり、いつの間にかネジの意味が無いほどまで緩んでしまう。
取れてしまってから気が付く。
ひどい場合は取れたことすら気が付かないまま、もあるだろう。

そういえば、準備室に「修理中」の紙が張ったまま分解バラバラになったイスが放置してあったな。あれはボルトがきちんと締まらないまま使い続け、ついには決定的に壊れたのだろう。
 

だから日頃の点検と手入れは大切なのだ。
緩んだネジがないか。
外れてしまったネジはないか。
大惨事になってからでは遅い。

そのためにはまず、正常な状態がどうなっているのか知っていなければならない。
−−正常な状態がどんなのか、どれくらいの人が知っているのだろう。知ろうとしているのだろう。
  あなたは知ってる?

今現在、正常な状態かどうか常に点検し続けなればならない。
−−点検もなく闇雲になっていないか。人任せになっていないか。
  気合いや気迫だけで解決するような簡単なことではない。正確に見抜く目と頭が要る。

明日も正常な状態が維持できるように手入れをしなければならない。
−−その後に省みることはしているか。やりっ放しになっていないか。
  ダメ出しは辛いから聞く耳持たない?
 

こんな事々を日常的にきちんとやっていないから、ネジは少しずつ緩んでいく。
知らないうちに。
気が付いたときには、元に戻れないくらいあちこちが緩んでいる。
いったん始まると急激に加速し不可逆になった時点で崩壊は決定的だ。
その時期は予想に反してすぐ来る。

困るのは、緩むことに自分は関係ないと思っていること。
さらに困るのは、気が付いても締め直さない人が出てくること。

ま、いいや、めんどくさいし。
こんなもんで大丈夫っしょ。
みんな、そんなもんよ。
とりあえず凌いだし。
まさに alla TOYOK…。

でした、今日の練習。
落ち込むのもキレるのも全く同じ、緩んでいくネジ。

ネジを締めよ!今すぐに!
イスや机は壊れても代替えがきくが、人の場合はそうは簡単にいかない。

11月
20
漸近線

xy=1という曲線のグラフは双曲線。そして漸近線。
xが限りなく0に近づいていくとyは限りなく増大する。xが0にならない限り決して0にはならない。論理的には無限に増えていく。

しかし実生活で悠長にそれをやっていることは難しい。
どこかで諦めて引き返すか、一歩踏み込みこむか、のどちらかである。

その境界にあるのが「線」だ。

越えるのは簡単だけれど決して越えてはいけない線。
出来れば越えたくない線。
越えたくても決して越えられない線。
必ず越えなければならない線。
科学的に、地理的に、政治的に、感情的に、様々な線があり様々な意味がある。

臨界点…
分水嶺…
38度線…

 
人の屍を踏んで地雷の埋められた国境線を越える。

 そう、国境を越すための手段が1つある。その手段とは自分の前に誰かにそこを通らせることだ。
 手に亜麻布の袋を提げ、真新しい足跡の上を、それから、お父さんのぐったりした体の上を踏んで、ぼくらのうちの一人が、もう一つの国へ去る。(悪童日記 アゴタ・クリストフ/堤茂樹訳−早川書房)

思いきって踏み込むことが出来ずに無限ループに陥る。

 そして、また一切が冒頭から始まり。−−一字一句の変わりもなく、変えようもなく−−また幼ごころの君とさすらい山の古老の出会いで終わると、古老はまたしてもはてしない物語を書き始め語りはじめ…。
(はてしない物語 ミヒャエル・エンデ/上田真而子、佐藤真理子訳−岩波書店)

 

越えるべき線を越えられない人達の塊。
その昔、思いきって地上に降りるか、そのまま木の上に留まるかで、進化は分岐した。

11月
18
情けない人達

は相変わらず情けないままのようだ。
1つ1つ事例を挙げるまでもなく。

あんたらこの先々大丈夫かよ!と余計な心配もしたが、これからはそういったこと全てしないと決めた。
そのエネルギーがもったいない。

以前ピュアな関わり方と書いたが、ようやくはっきりとその状態になったと思うので、今までそれを阻害していたところへの遠慮は一切しないことにする。

しかし、その報告は途中経過を含めて、いまだに全くされていないらしい。昨日知った。
なんのこっちゃ。
それが一番ダメでしょ!
私自身がそこに関わるつもりはもう既にないけれど、呆れてモノも言えないとはこのこと。これでは情けない人が増えてしまうよ。

であるからには、本筋に戻り、もう少し体勢を立て直す事をしようか、どうしようか…?
回数と物理的距離はどうしようもないからな。

少なくとも、忘れたり、やらなかったり、落としたり、出さなかったり、のような、より良い物にする執着心の薄れや、他への責任転嫁は何とかした方が良いと思うのだが…。

11月
18
感情移入

ってのはイメージの再構築なんだよな。
知り得た情報を元に、自分の持っている知識知覚(想像も含めて)を総動員しながらなりきること。

本を読んでその状況に入り込む。
映画を見て主人公になりきる。
話を聞いて自分もそこで実体験したような気になる。

如何に、今までの自分の中に無かったものや、未経験のことを、イマジネーションするか。
その力が足りなければ、人の痛みは到底理解できない。だって、自分は痛くないんだもの。

私の50肩の痛みの強烈さは、イマジネーション力の無い50肩未経験の人には絶対理解できないんじゃないかと思う。(厳密に言えば、イマジネーション出来たとしても本当の痛さは判るかどうか疑問だ。自分には痛みはないからね。)

だからへらへら笑って気軽に「頼みますわ」みたいな態度しか出来ないのだとすると、それ以降どうやっても痛みはわかってもらえないのだ、と諦めるしかない。能力の限界かもね。バカの壁というヤツだ。
しかし、それでも意義は大きい。「頼みますわ」と認めたのだから。

イマジネーション無しの音楽は音楽ではない。ただの音だ。

創る側は如何にイマジネーションを誘引するか。
音出す者は楽譜からどれだけのイマジネーションを引き出せるか、そして聴く人に伝えるか。
聴く人は、その一連の流れの中でどこまでイマジネーションを遡れるか。

音はただの物理的振動だ。そこに音楽という付加価値があるのならそれは人のイマジネーションしかない。

大切なモノは、音、そのものだけではないし、また、その瞬間に見て聞いて解って次の瞬間には忘れてしまうような軽薄短小なものでもない。
それらを、きちんと受け手自身が収めるためにはある程度の力量も要求されるから、いくらこちらが頑張っても見逃されてしまうことだってあり得る。しかし、そんなことにめげず目指し続けるしかない。
厳しいのだ。

11月
16
KYU

自分の書いた楽譜が、自分が関わらないところで演奏され、その結果だけを聞く。

たいていの場合、いくつかの場面で「え、そんなこと書いてないはずなのに…」と思うところが出てくる。
また、演奏団体によっては、私自身のイメージとかけ離れた音が出てくる場合もある。

先日数曲の演奏を聴いたのだが、やはりどうも思ったような音は出てこない事が多かったな。
それを聴きながら、まず、「えっ?」と思い、次第に「どうしてかなあ…」と考え、「そうか、楽譜の書き方が悪いんだ」と強く思うことにしたのだ。
とても上手いとされるバンドだから腕はあるはずだもんね。

もともと、ある特殊な場合のために書かれた楽譜の流用なので、ある程度楽譜と演奏のギャップはある事は承知なのだけれど、その音楽的内容を汲み取り「実際に演奏する場合に合わせて解釈し直すことも必要だよな」「でも元譜の音すら出ていない場合もあるしなぁ…」な感じで。
ま、演奏しにくい、とか、意図を読み取りにくいとか、楽譜が悪い事に起因するんだと、自分の勉強にすることにしたんだ。そのおかげで書き直そうと意欲が増えたからそれでOKだ。

もう一つ感じたこと。
自分の指向する音や音楽が、昨日聞いたバンドとは随分違っていることも再確認した。
以前より知ってはいたけれど、よりその傾向が強くなっている。
いや、逆だ。どんどん「普通」のバンドが自分と離れていってしまっているんだ、ということだな。
 

そんな中で、KYUの踊りを見ている人がたまたま近くにいた私に「なんでこの人達はこんなにはじけてるの?楽しそうなの?」って聞いてきた。一番下手側の人達見て。へへ。それどこのバンドだっけ?
「うちの子達もやってたけどさ、どうやってもこんな風に踊れない!」ってさ。

あるバンドはごっそり一列分ほど本番欠席だったみたいだ…!

大変な一日(一部は二日間)だったろうけれど、それぞれ得る物はあったかな。

11月
13
サナギ

小学生の頃、近くに牛糞が積み上げられているところがあって、良くカブトムシの幼虫を捕りに行った。

少し掘ると、出てくるわ、出てくるわ、わんさか幼虫が出てくる。

その頃から、街でカブトムシを売るようになったが、そんな環境にいるんだから、お金出して買うなんて信じられなかった。

時期によっては、幼虫ではなくサナギになっている場合もあった。
これは、だいたい直径が十数センチぐらいの牛糞の塊になっていて、上手に割ると表面が綺麗につるつるになった穴の中で茶色のサナギが胴体をひくひく動かしながらただじっとしているのだった。

乱暴にその塊を割ると、ごく希に中のサナギも一緒に割ってしまうことがあった。
もちろんそうすれば息絶えてしまうのだが…。(可哀想なことをした。)
割れてしまった茶色のからのような物からは、乳白色の体液がどろっと流れ出るだけで、内臓のような物は出てこなかった。
成虫になるために分化した器官がそれぞれだんだん発達していくのではなく、濃縮された体液が全てを含んで、混沌と成熟していくのだ、と、勝手に解釈し、大自然の不思議を感じたものだ。

後に、幼虫の時のそれはいったん分解されて成虫になるために再構成されるんだと言うことを知った。

 

それから、自分の中で何らかの発想が生まれ熟成していく様子を考えるとき、いつもこのカブトムシの体液がイメージされる。
1つ1つのパーツが論理的に完成しそれが集合しさらに大きなユニットとなって…、というより、もっと漠然と何かが始まり、それぞれが見えたり隠れたりしながらそれこそどろどろの乳白色の体液のように渾然一体となり、その混沌がさらに攪拌され、完成を目指して長い時間かけて熟成されていく。そして周知されるときは、蝶が羽化するように一気に劇的に殻を脱いで変態(へんたい、metamorphosis)し度肝を抜く、イメージである。

ただ、それではあまりにも感覚的すぎるので、何とか理論武装しようと躍起になっている自分がいる事も確か。

とにかく、今自分の中には、乳白色のどろっとした体液が混沌としてあり、熟成され、完成されるのをじっと待っているんだ、と感じているということ。さらには、出来上がりを確認できる状態にいつ変態するのかは皆目見当がつかないということ。

劇的な瞬間が来ることを信じてじっと待つしかないのだろう、と腹をくくる。