11月
11
守るべきことなど

自分にとって守るべき大切なものとは何だろう。

一番大切なものは目に見えない。耳に聞こえない。匂いも味もない。もちろんさわれない。いつもそう思っている。
一方では、具体的に守るべきものがあって、その事物を必死に守ろうとするほうがはるかに多い、という事も判っている。

その間でいつも迷っている。私は何を守るべきか。

しかし、これまで通りこれからも「生徒中心主義」でいてほしいと思います。
上を見る先生、自分自身を守る先生、波風を立てたくない先生、あきらめた先生、たくさんいる中で純粋に生徒のことを優先にする、先生として当たり前のことを信念を持って実践する数少ない先生だと思います。そんな先生に出会える生徒は自分も含め、幸せ者です。

だからこそ、「先生」でいてほしいと思います。
〜中略〜
まずは「先生」でいることを第一に考えてください。

過去にこんなメールを頂いたことがある。
(少々省略あり。前段は…、ま、いいや。恥ずかしいなぁ。勝手に引用してゴメンね。)
にもかかわらず現在、期待に応えられていない。

その立場がなかったらやるべき事すらできなくなるでしょ?という警鐘だということも重々承知。
でもね、その立場は私にとって一番に守るべき物とは思えない。それを守るために目に見えない大切な物を見失うと思う。
ただし、それは「私にとって」であり「生徒にとって」ではないかもしれない。だとすると先の引用メールの前段と全く矛盾することになる。

そして、その間でいつも迷っている。私は何を守るべきか。
結局、最終的には自分の感性を信じるしかないと思い、決断し、結果、期待に応えられていない現状がある。

すなわち、引用メールの内容は「そうあるべき、そうありたい」と願うことと裏腹に前段も後段も成立しなくなってしまうのだ。

…いつも迷っている。私は何を守るべきか。
…あぁ未熟なり。

11月
11
不思議な

アクセスがある。
常にここのページを覗きに来る。

お気に入りとかブックマークとかがこのページで、ここから入り、例えば最新の記事に行くとか、次のアクションがあれば何も不思議はないけれど。いつも見るのはここだけみたい。なんか裏技があるのかな。

で、そこ改めて見てみた。
うーん。書いた時の状況や思考は明確に覚えている。あるグループの会話を聞いていてとても異常に感じたことなんだ。
読み返してみて、テレビとかの放送がそれと全く同じ状態なんだと気が付いた。もし沈黙が訪れたら放送事故だもんね。
バラエティとかワイドショーとかは、これでもかといわんばかりの情報量(内容はともかく)を途切れなく出し続ける。受け手はその1つ1つをきちんと受け止めるなんて事はせず、気に留まったキーワードを脈絡なくつまみ食いする。
だから会話はいつまでたってもかみ合わない。そんなかんじ。私には耐えられないことが良くあった。それでも理解しようと…。

そして、最近その感覚を忘れていた、ということも気が付いた。
特に感心するような素晴らしい会話も聞いてないけど、違和感を感じるようなことは無くなったなぁ。
コミュニケーションする力だろうけれど、これがあるのはいたって普通のことだと思うよ。

11月
07
トレーニング

の効果ってのは絶大なんだな。
逃げ出さず自分に負けないトレーニング。
妥協を許さずやり続けるトレーニング。
気の遠くなるような反復練習を繰り返し、ダメ出しにへこたれず延々続けて、いつしか自分の身についた物は決して自分を裏切らない。

いや、気が付いていないかな。考えもつかないだろうと思う。
個人の技量はともかく、アンサンブルの精度は随分高い。「いつの間に?」って感じ。
応えようとしてくれたご褒美だろう。

足りない個人もいるし、技量もおぼつかない事多いけどね。
やらなければならないことは、まだまだ山積している。

何もトレーニングされていなければ到底出来る事ではない。
トレーニングされていたとしても単なる反復だけでは到達しない。
頭で理解できても体が反応しなければ音にあらわれない。

結局、どれだけ頭と体を動かしたか、という結果なのだろう。
そしてきちんと体で覚えたことは、ちょっとやそっとじゃ崩れないんだ、ということがわかった。

夏以降積み上がってきた、というより、夏までに貯めた資産だな、きっと。

今日、久しぶりにTSWのレッスンで音を聴いて感じたこと。
24人であの音を出せるのは、なかなかどうして立派なものだ。
倍の人数いたらもっと…(凄いことになるのに)…。

残念ながらスターはいない。しかし、みんなが1つ1つきちんと輝いて手を取り合っている。
長い年月をかけて積み上げてきた結果だ。

自信を持って。
誇りを持って。
資産を失うな。

11月
06
キャンプ場で

夕食を終え、星を見ながらくつろいでいた。銀河が素晴らしく、綺麗に夏の星座が見えていた。見えすぎてむしろ大三角形は無数の星々に埋もれてわかりづらいくらい。

隣のサイトでは、親戚の集まりか、親しい友達家族か、あるいは会社の懇親旅行か、複数の家族が一緒に楽しんでいた。
そのうち、小学生くらいの女の子と男の人が、寝ころんで星を見だしたようで、会話が聞こえてくる。全く姿は見えないが声だけ聞こえてくる。想像すると、父娘ではなく、普段は会うはずのない二人のような感じがした。

「わぁ、天の川すごーい!」
「あれは、はくちょう座。わかる?」
「うん。」
「あの明るいのはデネブって名前の星なんだよ。」
「知ってるー。習ったぁー。」
「そのデネブの横に北アメリカ星雲っていう赤い星雲があるんだよ。」
「へぇー。見えるの?」
「ううん、写真に撮るとね…」

特に聞き耳立ててたわけじゃないけど、たまに聞こえてくる単語がどんどん展開していくのが面白い。

「ブラックホールっていうのはね…」
「人工衛星ってのはね、ずっと落ち続けて…」
「ロケットの燃料はね…」
「宇宙はどんどん膨張していてね…」

もう20年近く前の夏休みでの話なので、どんなだったか詳しくは忘れてしまったけれど、難しい専門用語が容赦なくどんどん飛び交う興味深い説明だった。

奥只見のファミリーキャンプ場の一角で寝っ転がって星を見ながら、ほろ酔いのオトナと小学生の女の子がする会話じゃないよな、と思いながら、でも、とても知的でなんだか嬉しかった。
夕まずめにルアーで巨大なマス(と思われる)を掛け損なった感触(ブレットンが弧を描いて空中を20mくらい飛んだ!)を悔しく思い出しながら、その悔しさを溶かしてくれるように微笑ましかった。

その女の子、もしかしたら今、宇宙飛行士目指してるかも知れないぞ。

11月
05
ゼロって何?

ある集まりの時。
私の隣の女性(母親)が、食べている夕食の味噌汁をのぞき込んで、就学前くらいの男の子と話をしてる。
「この中にお豆腐いくつある?」
「2つ! (…だったかは定かではない…)」
「じゃ、全部食べちゃうよ。 ほら、いまは幾つある?」
「もうな〜い」
「そうね、それがゼロだよ。」
「ふーん。」
「今日、ここに来るときにゼロってなーに?って聞いてたでしょ?」
「…」その子はもう違うことに気を取られお母さんの話を聞いているのかどうだか…。
 

私の小学生の時の記憶。
小さな子が「0」を問うことにびっくりしたんだろうが、今でもなんだか良く覚えている。
しかし、最近ふと「凄いのは子供ではなく、このお母さんなんだ」と思うようになった。

そのお母さんは、たぶん、ある大きな会社の偉い人の奥さんで、ということは、今はその子供、その会社の偉い人なんだろう、と気が付いたのはずっとずっと後のこと。

子供はいつもそんな疑問を持っている。そして次の瞬間忘れてる。
だから、そのちっぽけなことをちゃんと覚えていて、答えを導き出してやることは簡単ではない。

子供は、きっと疑問を持った瞬間にスイッチが入るんだ。そしてスイッチが入った回路にタイミング良く刺激があるとそれは活き、そうでないとすぐ枯れていくんだ。言うまでもなく、活きた回路が多くできるとその後さらに複雑な回路は出来やすい。
そんなことを身近な者が周りで手助けしているのだから、その多さや偏りによって様々な風土が形作られるのかもね。

11月
03
日常の成立

今まであった物がこの先今まで通りあり続けること。
それは、何の労も無しに成り立つことではない、という事に気が付きたい。

駅で待っていれば、正確な時間に電車はやってきて目的地に運んでくれる。
しかし、もし時間通りに電車が来なければ、たいていの場合「何で?けしからん!」になるだろう。

でもその時に「何故、いつも時間通りに電車が来てくれるか?」を深く考えてみたら良いと思う。
その電車の運転手が居て、雇っている会社があり、運転技術を教える人がいて…。また、電車を作る会社があり、開発する技術が要り、レールを敷く人がいて、保全する人がいて…。電気を作る会社があり、それを配る仕組みがあり、滞ることなく流れ続けている…。
そんな膨大なひとつひとつの事々が「今、目の前に電車が到着する」というたった1つの日常を成立させている。
その膨大な事々のたった1つだけ欠けても、その日常は成り立たないかも知れないのに。
無数の奇跡が重ならない限り、ありふれた日常は成り立たたないのだ。

だからこそ、もし日常が崩れたら、何故か?を正確な視点でしっかり見極めようとする事は大切だろう。原因は一元的ではなく様々なのだから。

日常が失われて、今までと違った日常が取って代わる事で良いと思うのならそれも有り。
それでも「今まで通り何とかしたい」と強く願うのなら、それ相当の(代わりの何かの)手当が必要だ。(もちろんどうやっても不可能な事もある。)

どんな理由だろうと電車が止まったら、多くの人の日常が奪われる。
代替えバス運行が有ったら救われるかもしれないが、それは非日常のことだから、特別に誰かが手当てしなければバスは動かない。

誰が?
何のために?
どうしたら出来る?
果たして可能なのか?
そもそもその必要はあるのか?

それでも誰かが何かをしなければ日常は取り戻せない。
何も思いを馳せず「そのうち誰かが何とかしてくれるさ。」とお気軽に考えても、「つべこべ言わずそれでも何とかしてよ。」と要求だけしていても、物事は決して解決しない。

==

我々は舞台の上で非日常を創る。
だからこそ日常の大切さを噛みしめるべきだ。
日常と非日常の間でもがき苦しみ、両方を成り立たせる心づもりを持ち、対処する行動力を持つべきだ。

この世の中、当然あり続けると思っている日常ですら、明日から突然無くなるかも知れないのだから。

11月
02
レントゲン

写真を4枚ほど撮られた。
肩と腰と。

いわゆる50肩といわれるらしいのだけれど、肩(から二の腕にかけて)激痛が走る。両手とも。

50という数字の根拠は何だろう?40肩とも言うらしい。

どうって事もないときもあるけれど、ぐるぐる回す、ねじる、真上にあげる、後ろに回す、などの動作は決してしてはいけない。一瞬爆発したようなとてつもない激痛が走り数分間息が出来ないくらいの痛みに耐えなければならない。寝返り打つのさえ細心の注意がいる。服(特にジャケットのようなはおるもの)を着るのは一大事。

症状から予想はついていたしネットでそれなりの研究もしたので、整形外科医から正式に「はい。50肩です」と告知されてもびっくりはしなかったけれど、「しっかし綺麗な骨ですね、骨そのものは頑丈そうでしかも綺麗で、肩も腰も何の問題もありません」と言われて少々驚いた。
−骨そのものは大丈夫なんだな。−

しかし。
実際、棒を振って、無意識に腕が安全圏を越えて動いてしまい、トンデモもない目に遭うことがちょくちょく出てきて「ちょっとまずいなぁ」と思ってたところにだから、
−出来れば毎日電気当てに来てください。
と言われて、どうするべきか…。

しばらくの間この痛みと付き合わなければならないことは確かなようだ。

追記

こんな事書いていて、さらに。
先ほど階段降りるときに落ちた。靴下が滑った。
ま、最後の2段くらいだったので、落ちたことそのものはどうって事はない。足も腰も、打っても捻ってもない。擦り傷すらない。
しかし体を支えるために両手を後ろ手についた(らしい)。うをぉぉ!両手が抜けたかと思うほど肩に激痛。
そのまま床に転げ回って数分息が出来なかった。

ふー。しばらくしたら何事もなかったかのように今まで通りになった。(こうやってキーボード普通に打てる)
なんだか厄介だなぁ。

10月
31
人道の丘公園

へ行った。2度目。岐阜県の八百津町にある。
「命のビザ」で知られる杉原千畝の功績を称える公園。

彼の生まれ故郷の丘の上に公園がある。静かでとても良いところ。モニュメントの鐘が訪れた人により時たまカラーン、コローンとならされる。公園内は綺麗に整備され心地よい。近くにいくつかのハイキングコースもあるようだ。
「とんびに注意」と看板。周りを眺めてみれば何羽も気持ちよさそうに鳶が飛んでいる。外でお弁当食べてると狙われるのかな。
犬連れなので入らなかったが、記念館があり、内容は充実しているようだ。次回ゆっくり見たいと思う。
体制に背いても自らを貫き通した生き様をきちんと知るべきだと思う。

近くには木曽川が流れていて、丸山ダムという大きなダムがある。
その堰堤を作り直し新丸山ダムにする計画が進んでいるらしい。
公園の近くに少し不自然に大きなお屋敷が並んでいたが、もしかしたらダム建設のために移転してきたお家なのかな?このダム計画も今回の中止リストに入っているケド…。

実は先回来たときは公園の存在を知らずにダム側の山道(木曽川を挟んだ対岸)から闇雲に進んできたのだった。その道筋には、つい最近放棄されたのであろう家屋や畑がいくつもあって不思議に思っていた。そしてそのダム堰堤付近で大きなニホンザルの群れに出逢った。50頭くらいはいたんじゃないかと思う。車を止め、しばらくずっと行動を観察してとても興味深かったことを覚えている。

今回はその不思議を検証し猿の群れに再会しようと出かけたのだが、立ち入り禁止の看板が多く、その道に再び入ることはかなわなかった。で、廃墟はダム工事の関係なのかもしれない、と思った。

個人のちっぽけな営み、大きな体制の動き、大自然。
そのバランスは大丈夫なのか。

10月
30
日中に

テレビを見ることが多くなった。当たり前か。でも実につまらない。特にワイドショー。
(国会中継は面白いよ。)

世の中色んな事件がある。
だからそれを報道する。
専門家がそれを解説する。

報道は中立性を大切にしているだろうし、レポーターは一生懸命取材し専門家は報道よりさら詳しく論理的裏付けを元に掘り下げる。
必要だし当然だと思う。

しかし、その先は疑問だ。コメンテーターという人が出てくる。色々「感想」を述べ「意見」を言う。したがって根拠のない無責任な感情論が出てくる場合だってある。
そこそこ見識ある方がそれをするならある程度容認するけれど、ほとんど井戸端会議のような内容を聞かされると少々不快になる。自分が不快になる分にはスイッチを切ったりチャンネルを変えれば良いので構わないのだが。

世の中に人はその根拠のない下世話な話を、テレビ番組というお墨付きをもらった正しい意見と取りかねないんだよね。「昨日テレビで〜〜がこんなこと言ってたよ!」って。

今日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会は、ある番組で不正確で不公平な報道があったとして重大な放送倫理違反を指摘したけれど、そんなチェック機構だって世間が染まった後では取り返しがつかないこと多いだろうに。

テレビ番組の話題が二つ続いてしまった。