Profile
5歳から鈴木メソード(才能教育)にてヴァイオリンを始める。故近藤富雄氏に師事。
才能教育から離れるまでに一応(当時の)「研究科」というグレードまで進んだ。MozartのSonataNo5だったような…。1楽章の途中までだったかなぁ。
中学校にて吹奏楽部に入部。トロンボーンを担当する。
みんなでアンサンブルできる吹奏楽の方が俄然面白くなり、一人でさらうヴァイオリンから心が離れる。
2年の頃からアンサンブルや吹奏楽など数々の編曲を行い、吹奏楽の楽譜に関する基本的な理論(移調、各楽器の音域、総譜の書き方など)をいつの間にかマスターする。
高校でも吹奏楽部に入部。吹奏楽の世界から逃れられなくなる。
1年生の夏休みにはドビュッシーの交響詩「海」のバンドアレンジ(書きかけのスコアは1楽章が現存する)に着手している。ラベル「マ・メール・ロア」のアレンジ譜もあるから多分同時期に着手していたのだろう。
そういえば、リヒャルト・シュトラウス「トゥラトストラはかく語りき」の冒頭をやりたくて、何度も楽譜屋に行っては暗譜を試みた記憶がある。
メシアン「異国の鳥たち」の編成がピアノと管・打楽器だけと知り「いつかはやりたいと」夢見たのもこの頃である。
残念ながらメシアンはまだ実現していない。しかし、ストラヴィンスキーのピアノコンチェルトは実現した。
指導者のいない弱小吹奏楽部を率い2年の夏にコンクール指揮者デビュー。
どうしても音楽の道を目指したくなり、考え抜いた結果、紙と五線紙だけでローコストに勉強できる作曲科を目指すこととする。
たまたま自宅から歩いて5分足らずの所に大先生がいらっしゃった。実は中学校吹奏楽部の後輩のお父上。ということで、大学入試和声を保科洋氏に師事。
3年になると、オネゲルの「パシフィック231」を自らアレンジし、吹奏楽コンクールに挑もうとする。アレンジは完成するが大学受験勉強との狭間の中、部活引退を余儀なくされ「パシフィック231」は幻となる。(この楽譜も現存する)
今考えると、編曲許諾とかどうするつもりだったんだろう?
でも結局、後年に実現させるんだ。
愛知県立芸術大学音楽学部作曲専攻入学後、作曲を故 兼田敏氏に師事。
保科先生に引き続き、吹奏楽少年だった自分には夢のような環境だった。しかし…。
次第に、音楽する意味を見失っていき、毎日学校へ行くものの学食と図書館と美術棟を徘徊するだけの、極めて不真面目な学生になる。
当時は音楽学部なのに管・打楽器専攻がない変な学校で、それでもなんとかオケやりたくて素人(副科?いや、美術科の学生もいたよ)集めて組織したり。
そんなこんなで、人より多少多くの年月を大学で過ごしながら自堕落な生活に終止符を打つべく卒業を目指す。
諦めずにやり続けると何とかなるもんだ、途中でやめたら何もかもお終いよ、とやっとこの頃に解りかける。
卒業間近になり、突然「お前、吹奏楽やりたいんだったよな?」と問われ「こんな仕事あるけどやらんか?」と。
「この高校の吹奏楽の指導者探しているそうだ。」「カネダの一番弟子のお前にピッタリだ。」と。
卒業後の事なんか全く考えていなかったから、しかも、ガッコーのセンセーには一番なりたくないと思っていたから、しどろもどろで「少し考える時間を下さい」と言っているうちに、いつの間にか自分の進む道が決められていた。
ま、バンド出来るんだからいっか、と案外お気楽であった。
そして一転、苦悩の吹奏楽人生が始まるのである。
東邦高等学校吹奏楽部(TWE)顧問、豊川高等学校吹奏楽部(TSW)音楽監督歴任。
その他、吹奏楽のための作・編曲や、多数のスクールバンド、社会人一般バンド、社会教育型ジュニアバンドの指導をとおして学校教育や社会教育におけるアマチュア吹奏楽の可能性を追求し人がつながり心に響く音楽を目指して精力的に活動を繰り広げている。
作編曲家、バンドディレクター。
大垣女子短期大学音楽総合科非常勤講師。
N-systemaを目論み中。