日誌。何となく読み返したくなってね。
TSWに来てから3年経ち、日誌もだいぶたまってきたから、どれがどれだったか探しながら、ああ、あのときはこうだったなぁ、と思い出しながら楽しんでいる。
今までこのWIND MESSAGEで紹介した日誌はTSWのメンバーが書いものだったけれど、私自身が書いたものもそこそこある。
メンバーが書いてきたものに対して応える場合もあれば、私から話題提供する場合もある。走り書きの場合が多いから少々脈絡がない事もあるけれど、その当時の生な声だと思う。
今日はそれを少し書き出してみることにした。
「人を信じるって辛いんですかね」という問いかけ(だと思う。自問自答かも知れないけれど…)に応えた形になっている。
日誌より
(2008年1月30日)
信じることは辛いか?って。 辛いかもね。 でもなぜ辛いの?
信じているその瞬間が辛いか? たぶんちがうね。
信じている事、信じていた事が無意味だと感じたときが辛く感じるときだよね。
あるいは「無意味だと感じるときが将来あるかも」という事を予想しているときも辛いかな。でもこちらは「…かも」という仮定の話だからもしかしたら無意味じゃないかも知れない。その時は別に辛くないよな。
という事で「信じる事は辛いか?」の問いに対して私の答えは「No」
信じる行為は辛い物ではない。しかし信じる行為が無意味になった時、すなわち信じたのに裏切られたりした時が辛い。という事だと思う。〜中略〜
私にとって信じるという事は100%か0%のどちらか。中間はない。作らないようにしている。
信じよう! と思ったら無条件で100%だ。
自分の心の中だもの自分でコントロールできる。何がどうなっても100%信じる。
相手がどう?じゃない。自分の中、心の内部の決意だね。
「認められる」とか「信じてあげる」とかじゃない。自分と相手の関係の中で「信じる」のではなく、とにかく自分が信じる。それで良いんじゃないか。と思うが…。というよりそれしかないんじゃないのか。〜中略〜
自分の中で何をよりどころとしているか、自分がどう考えているか、が問題で、個々の相手1人1人が現在良い人間かどうかなんてあんまり関係ない。その意味で自己中という言葉は文字通りそうだと思う。むしろ、それで何が悪い?と開き直りたくなる。
コメントを残す