日誌。
前の続きがある。
日誌より
(2008年1月31日)
〜前略
疑いを持ちつつ信じるのは辛い。それは誰だってそうだ。
じゃ、なぜ疑うのかな? 何を信じるのかな?昔々こんな事があった。
あるクラスで盗難事件があった。何人もの被害者、かなり高額だった。
調べていくうちに何人かが疑われた。そのうちの1人にバンド部員がいた。確かにそいつは素行も悪く、約束破る事も多く部活やっていれば他の事はどうでも良い、みたいなやつだったから、指導部も担任も「ほぼ黒だろう」と疑ってしまうのはある意味しょうがないと思った。
クラスに行けないようになってずっと音楽準備室に入りびたり、そこで色んな話をした。もちろん本人は「やってない」と言う。さらに「ある事を知っているがそれは言えない。人を裏切る事になるから」と言う。だから「私が疑われている事はそれで構わない」のだと言う。他の先生に言ったのかと聞くと「そんな事学校のセンセイには言えません」「だったら何でおれに言う?」「先生はセンセイじゃないから…」…なんか良く解らんな。その時私が何を考え決断したか。
やつの家庭はわりと大変で親とうまくいってない。約束やぶる事多いから友達も半信半疑な感じ。もちろん指導部や担任は疑っている。
どこまでが本当かわからないけれど私に対して色々話してくれた。たぶんそれは本人の気持ち。
やつは今誰からも信じてもらっていない。だからこの世の中で1人くらいこいつの事を信じる人間がいても良いんじゃないか。それなら私がその信じる人間になろうと思った。そして、そうした。
殺人をしてしまった息子を「それでも本当はあの子はそんな子じゃない」と信じる母親のように。
「信じる」という事は無条件なんだな。
その時気付いた。信じる、とか、疑う、とかはその人の行為に対してではなくその人そのものに対してなのだ、という事を。より本質を見定めようとすればその行為の奥に何か別の物がある事に気付く。それを見ようとする努力は常に必要だという事を。〜中略〜
盗難事件の真犯人であったかどうか、それは今でも解らない。もっと時間がたったらおしえてくれる事もあるかも知れないが…。
それよりもヤツがその時何を考え何を悩み何を苦しんだか?そしてその事が年を重ねた今どう生きているか?
そこに少しだけど関わってしまった私が何を信じたのか?さらにその事がヤツの生き方に少しでも役に立っているか?なんてことが私にとって大切な事なんだな。
裏切られるのがこわいのならはじめから信じなければよい。
信じたいと思うのなら裏切られる事を含めて全てを信じなければならない。信じる、という事は 自分の決意 自分の覚悟。
人のために信じるのではない。自分のために信じる。
全て自分の責任において。その意味で究極の自己中、と言う事なのだな。
こんな事書いているからか、「さすが永遠の23歳!わかいですな!」と、口の悪いかつての生徒から励ましのメールをいただいた。ありがとう。
そうそう、私は弱冠23歳の未熟者だからね。まだまだ青いのです。
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