何度も話をしたので重複するけれど。
「親切な行い」と「親切な心」の違い。
「親切な行い」を教え、実際にさせることは出来る。そして、それが出来たかどうか検証することが出来る。電車に乗ってしんどそうな人がいたら席を譲ることを教えることはできるし、そして実際にその状況で行動できたかどうか、を評価することも出来る。具体的な行為行動だから。これはもちろん教育の守備範疇であるらしい。
しかし、その行為がどのような動機によって行われたか、は検証が難しい。
上記の状況でも、たまたま偶然に席を立っただけかも知れないし、「何で私が貧乏くじ引かねばならんのだ!」と怒りながらもしぶしぶだったかもしれない。
行為と心は必ずしもシンクロしないものだ。
だから席を譲る親切行為が純粋な「親切心」から行動したかどうか真実は大変わかりづらい。
そもそも「親切心」って何?
この定義すらきちんと説明できないかも知れない。
だから教育によって「親切」な心を持った人にすることは極めて難しいということのようだ。
定義や検証が極めて難しいから。出来ないからやらない、に聞こえるけれど…ね。
もしかしたら宗教とか哲学とかの範疇なのか?とは思う。
このことは、最近マスコミを騒がせた学校の問題で、ワイドショーコメンテーターの「学校って所はきちんと勉強教えていりゃ良いんだよ!」との発言に要約されるのかな。
私(私たち)は音楽をやっている。音楽とは音の高さや長さや強さや音色や、他様々な要素の順列組み合わせ以外の何者でもない。当然、理屈は定義できるし、理解したかどうか検証することが出来るが、音楽を理屈で説明しようと思うととても高度な理論が必要で大概辟易する。
にもかかわらず、誰でもそこに人の複雑な心情や言葉では表せない感情などを見いだそうとする。演奏するときも聴くときも。「音」を通して目に見えない心に思いを馳せるのだ。
ドレミがわからなくても、4分の3拍子がわからなくても「今の歌は心にしみるなぁ、故郷が懐かしいなぁ」と…。
その心情はどこから来る?
感情のとらえ方をどうやって知る?
誰が教える?
感性とかセンスとか、つかみ所のない物の言い様で片づけて、本人が勝手に身につけるのを待つしかないものなのか?そんな呑気なことで良いのか?
私の口癖「センスは磨く物だ」。それでは、誰が磨く?誰が磨き方教える?
「親切な行い」について1つ1つ例を取って説明し教え示唆する。励まし、やらせて、出来るようにしていく。それは教えることによって出来る。しかし単なる行為の修行である。
さらに大切なのはその修行を重ねて「親切な心」を育むことではないのか。(その事を宗教では悟りというのか。)
教育というからには「教える」事と「育てる」事と両方必要であると思う。
今の世、教えることは学校がやるとして、誰が育てるんだろう?
家庭? 地域? 社会? 学校?
音(音だって随分漠然としている!)を通して、目に見えない心を探ろうとする。
そして、閾下にある意識を顕在化させ認識させ次に繋ぐ。
それが教育の範疇であるかどうか知らない。今のご時勢、学校では難しい気がする。
しかし私は音楽(吹奏楽)を通して何とかしてそんなことをやろうとしているのだと思う。それが出来る状況をTSWでつくりたいのだと思う。
なぜなら私と関わった全てのTSWな人に「親切な行為が出来る」だけではなく「親切な心の持ち主になって欲しい」、すなわち「育って欲しい」と思っているのだもの。
コメントを残す