に振り回される、という表現が良いのかどうか解らない。
確かにどうしようもない場合もある。
苦渋の決断をしなければならない事はそうそう頻繁にあったら嫌だけれど、「これはしょうがない」と納得できることもあるもの。しかしあくまでも「苦渋の決断」であって欲しい。気まぐれの身勝手我が儘ではなく。
やっと自身の中からやりたい事やるべき事を見つけ(ここではそこに至るまでですらとても大変なのに!)、その実現に向けて困難に立ち向かおうとし始めているところで理不尽に水を差されてしまうと、今まで構築してきたこと全てを否定されてしまったような気になってしまう。それが単純な誤解であったとしても思春期な人たちにとっては致命傷になってしまうんじゃないか?
まだ幼くて、どう転んでも自分のコントロール下にあるうちは「やりたいようにやりなさい」と言っておきながら、意のままに操れないくらい成長すると「言うことを聞きなさい!!聞かないと△△だからね」と様々な手段を使ってでも従わせようとしているのではないか、と思ってしまう事がある。
「言いたいことあればちゃんと言いなさい」と言われ勇気を振り絞って言ってみると「生意気言うんじゃねぇよ!」と一喝される、というような事もある。
理屈じゃないんだ!という声も聞こえる。
そういったこと経験してオトナになっていくんだ!というのも解らないではない。
でもね。10代の心からは、それまでちゃんと鍛えてもらっていない事に加えて、しなくていい苦労をしこたま背負い込まされて、声にならない悲鳴が聞こえてくるよ。
みんなものすごく苦しいんだと思うよ。
今、目の前にある1つ1つのの小さなトラブルの奥には、それぞれ私では到底太刀打ちできない深くて大きい問題が潜んでいるようだ。
単なる吹奏楽馬鹿な私に何が出来るんだろう?
音楽というミクロコスモスにユートピアを見いだし、そこに逃避しているだけじゃないのか?
大人も人間で、
本当にそこを変えようと思ったら「神」の存在(自分の命を超える価値を見いだせるもの)がいるのだろうと推測します。
が、宗教家や宗教は人を救えているのだろうかと考えるとそこにも疑問が生じますし…
結局、神の存在を提供しても崇拝するのは人間で、自分の中に自分の欠点に気づきそこを変えようと働きかける心の動きがないとどうしようもなく、
その働きかけを行うのが宗教家なんだろうと思いますが、そもそもそれはなぜそんな特別な存在でなくてはならないのか…
高校生の自分たちには直ぐ横にその働きかけのできる存在として友達がいるのだから(いや、「今」はそれができる「高校生」あるいは「友達」そのものが減ってきているのかも知れないけれど)、いつかからかそれが無くなってしまうのだろうか…。
それが、社会の仕組みのせいだというのなら救えるのは「政治家」?
ただ、「(社会の)形式」はあくまで可能性を広げるだけであり、神を「神」として受け入れられるかどうかは結局本人次第
では、人を動かすものとは…心の底、感性から訴えられるもの「芸術」?
ただ、「芸術」は受け止めるものが理解できなくてはいけない
それに、「芸術」を必要なものとすべきなのだろうか…
なれど、必要とされなくても訴え続けるのが芸術家の運命だと考えるのはあまりにも辛くはないのか?
いや、辛さを秤に掛けるべきでは無いんだろうけど…う〜ん
とにかく、自分の場合はそれでも納得しないと先に進めない人間なんでせめて手の届く範囲、若気の至りだろうがなんだろうが訴えずにはいられないだろう、と。
>若気の至りだろうがなんだろうが
うん。良い言い訳なんだよな。若気の至りで突っ走ることはむしろ好ましいとさえ思っているから。
(だから私は永遠の23歳のつもり。)
突っ走れるうちに思う存分突っ走るべきだ。
(年齢相応で走りたくても走れない時期がいずれ来るんだから。)
若気の至りが通用する時期に、自分で限界つくったり、他人を気にしたり、で突っ走らない(突っ走れない)のは返す返すもったいない。
もちろん、まずは思わず突っ走ってしまうだけの熱い心を持ち合わせて欲しい、という事なんだよ、TSWの諸君には。
ねぇ、クロさん?
自分も甘い人間なんで人のことは言えませんが、
それでも、その情熱があることでどれだけ世界が違って見えるか、どれだけ面白く感じるか、それを思うと歯痒さを感じますね。