2月
28
風土
は変えられんよ! と言われた。
うん。そう思っている人が沢山いると変わらないだろうな。
「別段これで不便は感じないよ」だとしたら、周りでどれだけ騒いでも変わらない。
変わる事が出来るのは、変えたい、変わりたい、という欲求があればこそ、だろうからね。
そうなりたい、そうなって欲しい、という欲求もかな。
ただこの欲求もバランスを欠いてしまうと少し厄介だから気を付ける。変える必要のないことだってあるだろうし。
変わりたい、と思うためにはまずは沢山の異文化を見て知る事が大切だろう。井の中の蛙にならないよう多様な価値観を見つける努力は失いたくない。
とは言っても、通常、人は自分にとって異質な物は見たくない事が多いだろうか…。まだ10代だというのにそれまでに身につけた(ほんのわずかな)価値観の鎧に閉じこもって異質な物を排除したがっているように見えることがある。もったいない。
異質か異質でないかの判断とは既に自分の中に有る一定の価値基準による。その一定の価値基準のほとんどは後天的なものじゃないのかな。であれば、きっと変える事はできるはずだ、と思うのだが。
まずは個が変われば、そして変化できた個が沢山集まったら、風土でさえも変わると思うのだけれど。
机上の空論かな?
長い時間かけて積み上がってきた物を、簡単に変えられるはずはないだろうから、難易度は高いことは間違いないけれど。
まずは異質な物でも拒否しない許容力の大きな人(好き嫌いは別問題)になって欲しいと思う。結局それはインプット性能だろう。
「恐怖は無知からくる。」
どこかの哲学者がそう言っていたらしいのですが、
自分もよく思います。
もちろん、生理的に受け付けない。といった好き嫌いはどうしようも無いものですが(自分は人形がどうしてもだめです。)。
でも、結局多くの人は怖いから目をつむり、理解のために思考するということをしないような気がしてなりません。
受け入れようとするからこそ考える必要があるのではないか、と訴えかけても、そもそもその訴えが受け入れられない。
考える側からしたら考えない事がどれだけ恐ろしく感じられるか…
なぜ考えないでいられるのか?
結局それを考えるのも考える側の人間なんでしょうね。
心苦しい話しです。