5月
16
適性

つくづく自分はこの仕事に向いていないと思う。いつも思う。

そうあるべきだ、と思ってその理想に近づけば近づくほど、一般的に良しとされることから離れていくようだ。
目指すところが全然違うのかな?

私は常に「本質を見たい」と思うのだが、皆が必ずしも同じように「見たい」と思っている訳ではないことに気が付く。見てしまうと自分に都合の悪いことも見なければならないからかな?

私は音楽という世界にいる。
音楽の価値は、
いくら年数長く音楽活動してきた人でも、5歳の天才ヴァイオリニストにかなわないことがあるのを知っている。
どんなに努力家であったとしても、ほとんど練習しない、しかし持ち声の良い歌い手にかなわないことがあるのを知っている。
「良い」「悪い」はそこにいたる過程ではなく、その瞬間の絶対的価値によることを痛いほど知っている。
音楽という時間芸術であるからこそ、大切なのは二度とやり直しのきかないその瞬間ということを知っている。切り取った「瞬間」が如何に美しく素晴らしいか、のみが重要なのである。

一方、だからこそ教育という場では過程がもっとも大切なのだ。
「なぜそうなったのか?」
「そう思うようになるまでどう心が移り変わったのか?」
「へこんだ気持が前向きになるには?」
過程なのだから時間がかかる。当たり前だ。すぐに答えは出ない。
間違えることもある。萎えるときだってある。苦しくて座り込んでしまうときだってある。
そんな瞬間を切り取りそこだけ見て「なっとらん!」「甘えるんじゃない!」と言ったら救いようがない。
時間の流れの中で、どう推移したかが大切なのだ。
二度とやり直しのきかない「瞬間」の連続を最高に贅沢に無駄遣いしなければ、時間の流れは出来ない。だから、じっくり待つ。(だから教育にエコ[節約・倹約・効率…]はなじまないと思っている。)

私の仕事は、この全く相反する矛盾した二つを同時にやらなければならない。
だから、オトナの都合だったり子供の甘えだったりを許容するゆとりなど無い。
本質を見ようとしなければ何も進まない。生半可なことでは両立しない。
両立しなければ音楽にならない。
音楽にならなければ私のプライドが許さない。
厳しいのだ。

その厳しさに耐えられなくなる。そしてつくづく「向いてない」と逃げたくなる。

吹奏楽部を運営するのはそんなに難しいことではない。(とはいっても他に比べたら大変だよ)
しかし、吹奏楽部でちゃんと音楽をやろうと思うと極端に難易度が上がる。
さらに、それを可能にする環境も自ら作り出さなければならない。これがまた困難だ。分からず屋のオトナ相手で始末に悪い。
バンドはやることだらけ。

それでも、鞭打って「やらねば」と思うのは、疑うことなく澄んだ目でじっと見つめてくる宝物達が目の前にいるからだ。こんな自分でも心から信頼してくれているのだからそれに応えない訳にはいかないじゃないか。
適性が有るか無いかではなく、応える気持が有るか無いかだ。何度も出てくる師匠の言葉「教育は技術じゃないんだ、人だ。」

よく「なんでそんなに頑張るの?」と聞かれる。「手当が出るわけでもないのに」
当然経済的な目的ではない。もちろん自分の立身出世の為でもない。立場確保でもない。
私の中ではわかりきっている。
そしてそれをなかなか理解してくれない同業者がいることもわかっている。