少し思い出した。
スクールバンド指導を始めた頃の話だ。
今で言うとニートなのかな。いや、フリーターかな。学生の時は就職する気などさらさら無かった。
音楽で食っていきたかったが、だからといって学生課の求人票に音楽関連のものは皆無だったしね。
そもそも企業に就職する、という考えを持つ(いわゆる就活する)ことは「音楽を諦める」という意思表示であるという暗黙の了解があり、だれもそんなヤツはいなかった。みんな夢だけを追いかけていたんだな、きっと。
だいたいが、大学院、海外留学、バイトして食いつなぎコンクール狙い。ゆくゆくは演奏家になるか大学研究職になるか。
さしあたっての音楽関連の仕事は、音楽教室の講師か、高校の非常勤。
なかでも志のある人が公立の教員採用試験を本気で取り組む。などなど
「ま、30歳までに1つ大きな仕事が出来ればその後も何とか音楽続けられるようになるぞ。」
という師匠のお言葉で、少しずつ音楽の仕事が出来るようになればいいや、くらいに考えていた。
この頃にやった仕事をネットで見つけびっくり。自分では余り記憶がないんだけど。ホルストNo1、No2を金管アンサンブルにトランスしてる。本当かな?分業だったらしいが。
そこへ、突然話が舞い込んでくる。
「おまえ、高校のバンドやらんか?」
「バンドやりたくてここ(学校のこと)へ来たんだろ?バンドやりたくてホシナとカネダについたんだろ?」
…少し考えさせてください…と言ったものの、次の段階では
「彼の気持ちは固まったようです。よろしくお願いします。」と誰かに電話してる。
…おいおい、俺の気持ちは固まってなんか無いよ!…
…えっ、本当に俺が教員なんかやるんかよ?…
いつの間にか自分の将来が決まっていた。
絶対にやりたくない仕事No1の教員だ。
しかも、吹奏楽の超伝統校。
創部は昭和4年。日本のスクールバンドの草分けだ。第2次世界大戦で中断したらしいが、戦後即復活し華々しい活躍をするバンドになった。その歴史を築いた方が定年でお辞めになり、その後に私を、という流れ。
後から聞いた話、その世代交代でトラブルがあり、それまでの体制から総スカンを食らうことになる。大学出たての若造にそんなことは判るはずもなく。
全くの孤立無援の中で、「全国大会はいつ頃行けるようになるかな?」などのプレッシャーの嵐を浴びながらひたすらバンドをやった。
しかし、超伝統校のはずなのにまともな楽器がない。退職のお土産に持って行かれちゃったんだな。(後から楽譜蔵書の3分の2も持って行かれたんだった。段ボール箱何十箱と。)
学校に聞くと楽器整備予算も組んでない。
いったい今までどうやって活動していたんだよ????
生徒達も交代劇の中でギスギスに揉まれているから、顔見せした途端「部活動指導に対する方針を具体的に教えてください!」と詰め寄られたっけ。
しょうがなく「ぼちぼちやります」と答えたら大きく失望された。威勢良く「全国金賞狙いましょう!」と言って欲しかったんだろうな。
授業だって誰も何も教えてくれなかった。同じ教科他に誰もいないから。
よその学校の誰かに聞けば良かったのだろうけれど休日など無いまま毎日部活指導している中でそんな余裕有るはずないし、誰か、なんて新任早々知るはずもないしね。
結局、自分がやりたいと思い、やるべきだと思うこと(純粋に「音楽」をやりたいと思っていた)を誠実にやるしかないんだ、と誰かを真似ることも出来ずに、教えを請うことも出来ずに、目の前にいる生徒達と対峙するしかなかったのだ。
とはいえ、自分がやりたいことを生徒に伝えその方向で活動させつつ、各方面からの「成果を出せ」というプレッシャーと戦い、その狭間で悶える生徒達を見ながら、自分は何のためにバンドやっているんだ? 何故教師なんかしているんだ? という自問自答の毎日だった。
今でも鮮明に覚えているが、夏休みコンクールの時期になると必ず北海道辺りに行方不明になってしまう師匠へ、パソコン通信(インターネットじゃないんだよ!)メールで、一晩泣きじゃくりながら悩みをぶちまけたこともあった。
(進撃が止まった)コンクールの次の日、合奏中、感極まって涙が止まらなくなったこともあった。とんでもなく恥ずかしかったのだけれど隠してもしょうがないから、そのまましばらく合奏中断した。生徒はあっけにとられてポカーンとしていた。後日親しい他校顧問から「泣いちゃったんだって?」と心配されたよ。
その答えがある程度見えてくるのは、もっとずっとずっと後。いやいや、まだまだ見えていないけれどね。
だから師匠の言葉
「教育はな、技術じゃないんだ、人だ。」
が重くのしかかる。
「教員」という立場から逃れたくてしょうがなかった前任校時代。無謀にも「俺はもっと他にやるべき事がある!」と思っていたんだ。音楽家としての野望もあったし。
今は少し違う。自分のポジションというかスタンスというか少し見えてきた。
第一線で活躍することだけが優秀な音楽家なのではない。もっと大切な事が見えてきたと思っている。「育てる」という仕事。「教える」ことの自信はないので、教育という観点では全くの半人前。
しかしそれでも「育て」なければ次の世代は無くなってしまう。
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