と言う言葉を聞いた。ん?なるほど!
あるデイサービスセンターのお話。
日常生活では至る所にバリアーがある。避けて通れない事が多い。だから敢えて館内はバリアフリーにしておかない。箱が積み上げられ、通路はギリギリ。
食事はセルフサービスのバイキング。食器もカウンターにそれぞれ箱入りで並べられていて自分で取り出す。
食べ終わったらもちろん自分で食器をカウンターに返す。
車いすの人も歩行器の人も、誰もがそうする。もしこぼしてしまったら自分で片付ける。
「この方針に変えた当時は随分反発されましたよ。たくさんお辞めになりました。でも、誰のために、って考えたらこうなりました。」
そこにいる人達はとても生き生きとしていた。笑顔が絶えない。声が大きい。賑やかだ。
90過ぎのおばあちゃんが「こんなの何ともないよ。自分のことだもの。」
施設内通貨があり、作業をするといくらか手に入る。自分自身の作業でももらえるが、名前札をつくったり暖簾をつくったりと施設内の作業の場合もある。
その通貨でパソコンを利用しネットでアイドルを調べて「ウィッシュ!」と喜んでいるおばあちゃん。「ばくちやるんだ」と花札で遊んでいるグループもある。中国語を勉強している。足湯も通貨が要る。
ご飯が食べたいから自分で準備する。遊びたいから奉仕する。以前のように奥様と旅行に行けるよう歩きたいからリハビリする。
そこには全く悲壮感は見られない。みんな素晴らしい笑顔だ。
帰り際「明日も来るよ、楽しいもん。」
ここの人達は、少しずつ要介護度が軽くなるらしい。立てなかった人が一人で階段の上り下りが出来るようになるのだもの。
「昔は全然活気がなかったんです。ある時、ある人が『桜を見たい、だから歩きたい』と言った。それで、ここの人達は〜したい、が無かったんだと気が付いた。」(普通は「桜が見たい」と言われたら”親切に車いすに乗っけて連れて行ってあげる”のだろう)
桜を見たいから、毎日の歩行訓練を”したい”。”来年の桜は自分の足で見に行く”という目標を持って。
「やらされる」のでも「やらなければならない」のでもなく。「やりたい」のだ。
全部自分達にやらせれば、職員はさぞかし楽だろう、と思ってはいけないと思う。本当は「やってあげた方が楽」なくらい陰で大変なんだと思う。
後で気が付いたがその番組は「逆転の発想」というテーマだった。
そうか、やはりこの発想は普通じゃないんだ。
「介護してあげている」という美しく見える行為が、一歩間違えると実は自発性を根こそぎ奪っているという部分に着目するのは一般的には難しいのかも知れない。
ずっと思っている「不親切の重要さ」を証明していて、嬉しかった。
しかし同時に、
「でも、もともと『〜したい』の想いが少ない最近の人達はどうするんだろう?」
と不安になったことも事実。
バリアあり〜
ナイスですね
私もばあばの介護でそれを実行していたのですが どんなに周り(家族・親戚・隣近所)に説明してもなかなか理解してもらえず悔しい思いをしました
冷たい嫁だと言われたりもしました
そりゃあなんでも手を出した方が楽チンですが 見ているだけの人々にはわからないようです
難しいですね
待つことと同じですね
やっぱり少数派なんですかねえ?
でも やっぱりコツコツと自分を信じて できることをやっていきたいと思います
〜したい を受け止め支えられるようになりたいです
いつもありがとうございます。
そうですね、少数派かもしれません。
でも、目指すべきところはそうありたいと(心の底で)思っている人は案外多いのじゃないかな、と。しかし、それは「夢物語だ」「現実はそうは上手く行かないよ」のようなところで二の足を踏んだり諦めたりして、実際にやってしまう人はごく少ないのかな、と感じています。
私は一回キリの人生だからやりたいように生きたいと思っているだけです。
そのためにいっぱいご迷惑おかけしているのは事実ですが。