ってのはイメージの再構築なんだよな。
知り得た情報を元に、自分の持っている知識知覚(想像も含めて)を総動員しながらなりきること。
本を読んでその状況に入り込む。
映画を見て主人公になりきる。
話を聞いて自分もそこで実体験したような気になる。
如何に、今までの自分の中に無かったものや、未経験のことを、イマジネーションするか。
その力が足りなければ、人の痛みは到底理解できない。だって、自分は痛くないんだもの。
私の50肩の痛みの強烈さは、イマジネーション力の無い50肩未経験の人には絶対理解できないんじゃないかと思う。(厳密に言えば、イマジネーション出来たとしても本当の痛さは判るかどうか疑問だ。自分には痛みはないからね。)
だからへらへら笑って気軽に「頼みますわ」みたいな態度しか出来ないのだとすると、それ以降どうやっても痛みはわかってもらえないのだ、と諦めるしかない。能力の限界かもね。バカの壁というヤツだ。
しかし、それでも意義は大きい。「頼みますわ」と認めたのだから。
イマジネーション無しの音楽は音楽ではない。ただの音だ。
創る側は如何にイマジネーションを誘引するか。
音出す者は楽譜からどれだけのイマジネーションを引き出せるか、そして聴く人に伝えるか。
聴く人は、その一連の流れの中でどこまでイマジネーションを遡れるか。
音はただの物理的振動だ。そこに音楽という付加価値があるのならそれは人のイマジネーションしかない。
大切なモノは、音、そのものだけではないし、また、その瞬間に見て聞いて解って次の瞬間には忘れてしまうような軽薄短小なものでもない。
それらを、きちんと受け手自身が収めるためにはある程度の力量も要求されるから、いくらこちらが頑張っても見逃されてしまうことだってあり得る。しかし、そんなことにめげず目指し続けるしかない。
厳しいのだ。
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