大学の推薦入試などの場合、あらかじめ書いた自己推薦文を提出することがある。当然内容の優劣により入試の合否に影響する。
しかし、その内容を本人が書いたかどうかななんてどうやったら判る?
同様に絵画や写真等のコンクールで作者の本人確認はどうするんだろう?
小論文指導と称して、結局教員が全て書いてしまう場合があることを知っている。
高校生弁論大会の原稿を本人ではなく教員が全て書いて優勝した例を知っている。
教員が書いた「書」(書道作品)を、現役高校生として出品し全国コンテストで入賞した例を知っている。
確かに、誰かが肩代わりして上手く事が進んでいけば、首尾上々な気がしてくる。
実績という目に見える成果ができあがる。
助けてもらった者はとりあえず欲しかったモノが手に入る。
助けた者はなんだか優越感に浸れる。
でもね。私はそれでは「生きる力」を育てたことにはならないと考えるのだが。
助けてくれる人がいなくなったらどうする?
助けてもらい簡単に「欲しいモノが手に入る」事に慣れてしまった後に、ハシゴを外されるように助けてくれなくなったらどうする?
その点、バンド指導は誤魔化し(本来やるべき人がやらず指導者が肩代わりすること)は効かない。
効かないどころではない。コンクール等では指導者自身が評価の対象になり採点もされる。(このことは本当に特異だ。スポーツでも監督としての評価はあるだろうが、パフォーマー・プレイヤーとしての評価は有り得ない。ましてやその事が勝敗の直接原因にはなりづらい。)
だから常に真剣勝負だ。
内容に対しても。
人に対しても。
特に人に関しては生身の人間同士がぶつかるんだから美しいはずがない。
端から見ているととてもエグイだろうな、と思う。
いたたまれなくなるのかも知れない。
そうすると、困ったことが起こる。特に最近著しい。
自称正義の味方が現れ介入を開始する。
さらに、自称正義の味方は感情に訴えやすいから、世の中が味方につきやすい場合が多い。
味方についてもらい(多くの人に)賛同してもらったと力を得た気になり、自称正義の味方は人助けをしたと大きな優越感に浸る。
双方何らかの結果を得て、首尾上々、と相成るわけだ。
ま、その時はそれで良いのかも知れない。
しかし、結果、手足をもがれたように「生きる力」を得るチャンスを失い、助け無しでは生きていけない自立不能な人をつくることになってしまうと思う。
さらに、最大の問題は、本人がそこに気が付かない、そこに行き着けない事だと思う。
あっ、知らぬが仏、という言葉もあるなぁ。
いつかそれに気が付けば救われるかもしれないが、その時では手遅れの場合も多いだろう。
かくしてまた一つチャンスを失うが、誰かがコントロールできることでもない。そういう定めなのだよ、きっと。神様仏様の思し召し。
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