諸君へ。
ありがとう。
この一言に尽きる。
言うまでもなく私は我が儘だ。
私は楽をしたい。
私は良い思いをしたい。
私は幸せでありたい。
しかし、それ以上に強い思いがある。
主体が入れ替わっても全く同等に同じ思いをしたい、ということだ。
すなわち、「私」と「あなた」が入れ替わっても同じでなければならない、と思っている。
なぜなら、皆が同じように楽をし、良い思いをし、幸せになることが自分にとって大切だから。
言い換えるならば、周りみんなが幸せであることが自分の幸せである、と思っている。
個人の幸せを突き詰めていくと全体の幸せを考えなければ成り立たない、と思っている。
1人で生きているのではない。自分以外の全ての人と関わっているのだ。
そう、あのトレジャリーオブスケールの表紙の絵だ。
私の根底をなすアンサンブルの概念。
今でも強烈な印象に残っているインタビュー。
20世紀末の頃、毎朝著名な人と対談し、最後に「21世紀に向けてひと言」を語ってもらうシリーズがあった。
大指揮者のインタビューだったある日、同じように「21世紀に向けてひと言」と促されて、にこにこしながらその大指揮者は「個人の幸せを追求できる世界にしたい」と語った。
直後、二人いたアナウンサーが同時に、しかも、ものすごく不審そうに「そんなことになったらみんな好き勝手し放題の無法な世界になりませんか?」と反論した。
大指揮者は不思議そうに「世界中のすべての人が自分は幸せだ、と感じる世界が一番幸せだと思いますが?」とゆっくり応えた。
私はこのとき、ああ、やっぱりこの人は大指揮者だ。音楽の理想の世界をそのまま純粋に語っている、と思うと同時に、一般的にはなかなか理解されない事なのかも知れない、と感じたのだった。
オーケストラの指揮者とは絶対的な存在で、指揮の指示のとおり団員の有無を言わさず従わさせ、それでオーケストラの秩序が保たれていると考えられているのだろう。
実際は、オーケストラの団員は国籍も性別も個性も音楽も違う一人一人の強烈な個であって、誰かに絶対的に従う、なんてことを一番嫌がる人達の集まりだ。だからオーケストラはある意味とても厄介な集団なんだ。
しかし、その個が集まり協働して音楽を創る。しかもその瞬間そこにいる団員全ては究極にそれぞれ自分の幸せ(理想の音楽)を願うのだ。それが集まると全体としてとてつもない幸せの塊である「音楽」を創出することになっていく。
ただし、それには条件が必要だ。
他者の幸せを願う(自分とは異なった価値観を受け入れ寄り添う)気持だ。
自分以外への思いやりに溢れた者のみが、自分の幸せを享受できる
自分が自分の幸せを願って参加し、しかし同時に他者の幸せを受け入れ混じり合い、全体として大きな幸せを作り上げる。
その大指揮者は、そんなことを言いたかったのだろうと思う。
しかし、そのアナウンサーは最後までそれを理解できなかった。
個人の我が儘を抑制しなければ全体は成り立たない、と。
私はTSWでそんな音楽を作りたかった。
だから、他者への思いやりに欠ける行動に対しては厳しくした。
また、自分自身のやるべき事をやらなかったり、自暴自棄だったり無責任だったりしたときも厳しくした。自分の幸せを放棄しているように見えたから。
その意味がなかなか理解できない時、みんなは随分苦しんだに違いない。
そして、区切りになった。
自分の足で歩いて自分の幸せを見つける旅に出る準備は整っただろうか。
自分の幸せ(価値観)を受け入れてもらうこと=他人の幸せ(価値観)を受け入れること。
常に立場を入れ替える事が出来ればよい。そして対話だ。ただそれだけだ。
自分の道は一人一人皆違う。しかし前進することが希望であることを知っていれば、その道は苦痛ではない。
さらに、その事を知っている人達がすぐ身近にいるはずだ。何かあったら頼る事も出来る。
そんな事どもをひっくるめたのが、TSW-NGOスピリッツだ。
理解しようとし、引き継ごうとしている諸君。
心の底からありがとう。
そして…。
いつも心に音楽を!
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