4月
04
モモ
果物の桃ではない。
ミヒャエル・エンデの同名の作品。日本では児童文学というジャンルに分類されるのかな。
時間泥棒とそれを取り戻そうとするモモのお話。
この辺りの説明が私の印象と一番近いような。
映画化もされている。「はてしない物語」と違い思いのほか原作に忠実だ。といっても限界はあるけどね。
蛇足ながら「ネバーエンディングストーリー」と「はてしない物語」は似て非なる物でしょう。
その中に、急げば急ぐほど遅くなってしまう場面がある。
追っ手に追われ焦って先を急ぐほど追いつかれてしまうのだ。
その時は、逆にゆっくり歩くと良い。ゆっくりになればなるほど先に進む。
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とても天気が良く、桜満開で、しかも近くの公園の桜祭りイベントで火縄銃の模擬連射が続きそうだったので、避難がてら音響シャイなせろりをドライブに連れ出したのだった。
道すがら、桜も満開だったが桃も満開で見事だった。
で、「桃源郷」って意味は判るけど、桃の字を使うのなんでだっけか?とか、仙人って良いなぁ、とか、とりとめもなく様々なことが頭の中を巡り、ついには、エンデのモモを思い出したのである。
そして、
「自分の中に流れる時間は、どんどん遠ざかっていないだろうか?」
「必死に(身の程忘れ)流れを取り戻そうとしていなかっただろうか?」
と考え、次に、ようやくそんなことに思いを巡らせることが出来る程になってきたかもね、と感じたのだった。
桜は満開。
うじゃうじゃと人間がその花の下に群がってくる。
そして昔聞いた台詞を思い出す。
「桜の花は毎年新品です!」
お久しぶりです。
先日来、うすうす感じているのですが、
「時が流れ(る)た」のではなくて、
「流れてい(る)たのは」、ニュアンスとしては、「流れていった」か・・・
時ではなくて、自分自身なのではないかと
どこぞの門を出てから四半世紀経ちましたな
この無駄は、必要な無駄なのだと、言い聞かせてきましたが
やはり、無駄そのものだったような。遊び方が小さいんでしょうかね。
疑う汝を疑うなかれ。とも申しますが。
> どこぞの門を出てから四半世紀経ちましたな
今、少しずつ資料を整理しているのだけれど、それを見て愕然とするね。
「え、これって15年も前のことなの?」
とか。
感覚としては、自分が前に進んできたのではなく、自分は一所に留まったままで、時間だけが自分を通り過ぎて前に行っちゃった、みたいな。
一生懸命やってたつもりなのに、結局何も残ってないぞ、という焦燥感だけが積もっていきまする。
ちっちゃいんだな、やっぱり。