今までに何度も言ったはず・話したはずの事なのに「全く初めて聞きました」という様子の時がよくある。
普通に考えると「一度言ったことはちゃんと覚えておけよ!」なのだが、もしかしたらそんなに単純ではないのではないかと思うようになってきた。問題があるのは「記憶力」(メモリー)ではなく、「入力」(インプット)の段階で既につまずいているのではないか、と思うようなことが何度もあったのだ。
こちらの意図や話の内容が正確に伝わっていない、すなわち把握できていない、理解しようとしない、もしくは、はなから聞く耳を持たないのではないかと、感じるようになってきたのだ。
だから、正確に理解したかどうか不安だから同じ話を何度も繰り返す。どうしても話がくどくなる。余計聞く耳を持たなくなる。理解しようとしなくなる。しかし繰り返すと少し改善する。だからまた同じ話を繰り返す。飽きてくる。聞きたくない。 …悪循環だ。
簡潔にわかりやすく伝える努力はしなければならない。それは伝える側として当然。
だけど、わかりやすい説明でなければ理解できなくなってしまうのは少しまずいのではないか?
少々わかりにくい説明でもそれを理解しようとする「受け手側の努力」もホントは大切なのではないか?
PISA調査において日本の子供達の読解力低下が問題になった頃、ある研究会でその対策キーワードに「不親切」をあげたことがある。他の人はさぞ訝しく思ったに違いない。
今は何をするにも親切丁寧で、失敗をさせない、苦労をさせないことに重点が置かれることが多い。私はいつもそのことについて「上手くいかない余地」を与えない、すなわち「失敗する」という出来れば避けたいけれどしかし実は貴重で大切な体験をする機会を奪っているように思っていたのだ。
周りが親切すぎるのは「自ら考える力」を奪っている最大の原因だと考え、その対策として、あえて「不親切」を提唱してみたのだ。
今もその考えは変わらない。さらに「不親切」のあとには「ひたすら待つ」べきだとも思っている。
今「読解力」問題は「生きる力」問題に発展している。
中央教育審議会答申(1998.6.30)で提示されている「生きる力」とは、
・自分で課題を見つけ ・自ら学び ・自ら考え ・主体的に判断し、行動し ・よりよく問題を解決する能力 ・自らを律しつつ ・他人と協調し ・他人を思いやる心や ・感動する心など ・豊かな人間性とたくましく生きるための ・健康や体力
を指している。なんだ、いつもTSWのみんなに言っていることだよ。
何でもかんでも正解することが大切で、間違えることはとても恥ずかしい。だから出来るだけ間違えないようにしたい。しかも正解を出すことで苦労したくない。だから答えを教えてくれない指導は嫌われる。プロセスはどうでも良くて、正解であるかどうかでしか価値が見いだせないのだ。
ゲームにしたって、ゲームの攻略本ですぐ答えを与えられてしまえばつまらないものだと思うのだが…。それが続けば上記のような「生きる力」は付くはず無いのに、と思う。
私は音楽をやっているが指揮者(指揮の専門家)ではない。吹奏楽の合奏で指揮棒を振るが指揮棒のみで100%音楽を表現できるほど棒の技術を持ち合わせてはいない。
しかし、毎日顔をつきあわせているメンバーはボクのヘタクソな棒を理解してくれている。(合わせなきゃ怒られるしね。)
そこには解りにく棒ではあるけれど理解しようとする気持ちとか合わせようとする決意、癖なども読んで意図を再現したい、という前向きな気持ちがあるように思う。(あって欲しいと思う、が正解かも)
一方、素晴らしい棒の技術を持ち合わせている方々は、相手が初対面だろうと初心者だろうとなんだろうと、指揮棒の一振りで音や、音楽をコントロールすることが出来る。少ない練習で効果的にこちらの思った通りに音を出してもらわなければ仕事にならないので、さらに棒を振る技術に磨きがかかる。 当たり前だが、だからプロの指揮者と呼ばれる訳だ。
その場合、棒で明確な指示を貰えるので、演奏者は棒の通り音を出しさえすればいいので、あまりいろんなことに気を遣うことなく楽に演奏できる。
だが、とりあえず指示通りの破綻のない音を出しているだけで、そこに音楽の喜びとかアンサンブルの妙味とかがたくさんあるかどうか疑わしいかもしれないのだ。
とにかく指示通り何かをさせることと、こちらの意図や思いを相手に正確に伝達することは全く意味が違うと思う。
指示通り何かをさせるのことですら苦労するような人たちに、こちらの意図や思いをきちんと伝達し記憶に定着させ必要なときに引き出せるようにする、ということは、本当に至難の業に思えてくる。。
私も かつて吹奏楽部員でした。中学生の時、毎年欠かさず聴きに行っていた 岐阜高専の定演でのステージドリルに憧れ、自分もいつか 必ず 同じ舞台に立つんだぁあ・・・と 意気込んではみたものの、女が高専に行くなんて!という父親の一喝のもとに あえなく地元の公立高校に進学した。もちろん 吹奏楽は続けたけれど 当時の公立高校の吹奏楽では ドリルなんて指導できる人材は豊富にはおみえにならず それどころか、部員の中でもドリルを知る人さえも少なかった時代である。 そんな田舎の吹奏楽部だったが 当時は 東海大会に出場したこともあるまあまあな学校だった。けれど顧問の先生は国語の先生で音楽の知識はなく 合宿をやりたいとお願いしても 合宿をやる意味を俺が納得できるように説明できなければやらせん!と言って 結局 合宿はできなかったこともある。 また、月に一回程度、地元の中学の合唱部の先生で岐阜県吹奏楽連盟の偉い方!?らしい先生が指導にいらしてくださるのだが、たまのことなので言葉の一つも聴きもらさまいと必死だったことを記憶している。 基礎練習も 何をどのように練習したらどこがどうよくなるのかわからずひたすら、先輩に言われるようにロングトーンを続け、また、苦手な部分を克服するにはどんな練習をしたらよいか 効率の良い方法がわからず これもただひたすら 同じところを吹きまくっていた。 高校吹奏楽の名門校や私立のお金持ち校はともかく、楽器の調達や手入れも満足にできない弱小部だった。 昔話をしても仕方ないのであるが、当時 私がどうしてもやりたくて、でもできなかったことを TSWのみんなが 今 現在 やってくれている!なんと素晴らしいことか! 私は みんなを通して 再び 高校生活を擬似体験している。しかし、それはあくまでも 擬似 であり、現実の経験を今まさにしているみんなの気持ちやなんかはわからない。 自分の経験からいって たぶんこうだろうな と 想像する程度だ。何でもそうだけど 経験したことのないことはわからない。想像でしかない。 けれど もうじき予定されている定期演奏会のすばらしさはわかる。 とても大変だけれど その大変さに比例して 本番の気持ち良さも大きくなる。
TSWの そんな素敵な瞬間に少しでも立ち合えて私はすごく幸せだ。 これから先 レベルアップしようとする毎に またか と 壁にぶちあたるだろうが みんななら必ず乗り越えられるはずです。 おごりでもなんでもなく、純粋にそう思います。 自分を信じて 仲間を信じて全うしてください。 偉そうなことを書きましたが とにかく、全力で応援しています。きっと こう思っているのは私だけではないはずです。みんなが思っている以上にたくさんの応援団員がいます!がんばれぇえーーーっつ!!! 長々と失礼しました。
コメントありがとうございます。また応援エール本当に嬉しく思います。
TSWで活動している生徒達は、リアルタイム今この瞬間にその活動の意味なんて分かるわけ無いです。後からじわ〜〜って来るものだと思います。でもそれも3年間続けてこそ。
とは言っても3年間続けるのは並大抵のことではないです。いろんな人が支えてくれないと倒れてしまいます。家族、仲間、部活動以外の友達…。
最近その事について書いた日誌がありました。
〜前略
朝早くにお弁当作ってくれて、お父さんも「がんばってね」って言ってくれます。いろんな人が支えてくれて、たまにはお手伝いとかしっかりしなきゃって思います。それで、「感謝の気持ち」をもっと大切にしようって感じました。
さっきの話と似ているかとも思うのですが、やっぱりお父さんお母さんやみんなに対する「ありがとう」。それからちょっと違うかもしれないけれど、ちゃんと動いてくれている自分の体、支えてくれてる地面とか、吹かせてもらっている楽器、言いだしたらきりがないけど、とにかくあらゆるものに感謝しなくちゃって感じました。
後略〜
そうやっていろんな人たちに支えていただいているからこそ、その恩返しにがんばることが出来たらなんと美しいだろうと思います。なんと優しいんだろうと思います。
TSW応援団員さんのコメント、そのまま私たちのエネルギーにします。ありがとうございます。
応援ありがとうございます!
今の恵まれている環境に感謝し,これからも成長し続けていきますo
定期演奏会は絶対成功させます!!!!!
本当にありがとうございます!!!
コメントありがとうございます!!!親や友人だけでなく見ず知らずの方にも応援されているんだと思うと、とても嬉しく思います!!これからも壁にぶつかることは何回もあると思いますが、自分が応援されている事を思い出して頑張っていきたいです。本当にありがとうございました!!!