1月
25
定着

今までに何度も言ったはず・話したはずの事なのに「全く初めて聞きました」という様子の時がよくある。
普通に考えると「一度言ったことはちゃんと覚えておけよ!」なのだが、もしかしたらそんなに単純ではないのではないかと思うようになってきた。問題があるのは「記憶力」(メモリー)ではなく、「入力」(インプット)の段階で既につまずいているのではないか、と思うようなことが何度もあったのだ。

こちらの意図や話の内容が正確に伝わっていない、すなわち把握できていない、理解しようとしない、もしくは、はなから聞く耳を持たないのではないかと、感じるようになってきたのだ。
だから、正確に理解したかどうか不安だから同じ話を何度も繰り返す。どうしても話がくどくなる。余計聞く耳を持たなくなる。理解しようとしなくなる。しかし繰り返すと少し改善する。だからまた同じ話を繰り返す。飽きてくる。聞きたくない。 …悪循環だ。

簡潔にわかりやすく伝える努力はしなければならない。それは伝える側として当然。
だけど、わかりやすい説明でなければ理解できなくなってしまうのは少しまずいのではないか?
少々わかりにくい説明でもそれを理解しようとする「受け手側の努力」もホントは大切なのではないか?

PISA調査において日本の子供達の読解力低下が問題になった頃、ある研究会でその対策キーワードに「不親切」をあげたことがある。他の人はさぞ訝しく思ったに違いない。
今は何をするにも親切丁寧で、失敗をさせない、苦労をさせないことに重点が置かれることが多い。私はいつもそのことについて「上手くいかない余地」を与えない、すなわち「失敗する」という出来れば避けたいけれどしかし実は貴重で大切な体験をする機会を奪っているように思っていたのだ。
周りが親切すぎるのは「自ら考える力」を奪っている最大の原因だと考え、その対策として、あえて「不親切」を提唱してみたのだ。
今もその考えは変わらない。さらに「不親切」のあとには「ひたすら待つ」べきだとも思っている。

今「読解力」問題は「生きる力」問題に発展している。
中央教育審議会答申(1998.6.30)で提示されている「生きる力」とは、
・自分で課題を見つけ ・自ら学び ・自ら考え ・主体的に判断し、行動し ・よりよく問題を解決する能力 ・自らを律しつつ ・他人と協調し ・他人を思いやる心や ・感動する心など ・豊かな人間性とたくましく生きるための ・健康や体力
を指している。

なんだ、いつもTSWのみんなに言っていることだよ。

何でもかんでも正解することが大切で、間違えることはとても恥ずかしい。だから出来るだけ間違えないようにしたい。しかも正解を出すことで苦労したくない。だから答えを教えてくれない指導は嫌われる。プロセスはどうでも良くて、正解であるかどうかでしか価値が見いだせないのだ。
ゲームにしたって、ゲームの攻略本ですぐ答えを与えられてしまえばつまらないものだと思うのだが…。それが続けば上記のような「生きる力」は付くはず無いのに、と思う。

私は音楽をやっているが指揮者(指揮の専門家)ではない。吹奏楽の合奏で指揮棒を振るが指揮棒のみで100%音楽を表現できるほど棒の技術を持ち合わせてはいない。
しかし、毎日顔をつきあわせているメンバーはボクのヘタクソな棒を理解してくれている。(合わせなきゃ怒られるしね。)
そこには解りにく棒ではあるけれど理解しようとする気持ちとか合わせようとする決意、癖なども読んで意図を再現したい、という前向きな気持ちがあるように思う。(あって欲しいと思う、が正解かも)

一方、素晴らしい棒の技術を持ち合わせている方々は、相手が初対面だろうと初心者だろうとなんだろうと、指揮棒の一振りで音や、音楽をコントロールすることが出来る。少ない練習で効果的にこちらの思った通りに音を出してもらわなければ仕事にならないので、さらに棒を振る技術に磨きがかかる。 当たり前だが、だからプロの指揮者と呼ばれる訳だ。
その場合、棒で明確な指示を貰えるので、演奏者は棒の通り音を出しさえすればいいので、あまりいろんなことに気を遣うことなく楽に演奏できる。
だが、とりあえず指示通りの破綻のない音を出しているだけで、そこに音楽の喜びとかアンサンブルの妙味とかがたくさんあるかどうか疑わしいかもしれないのだ。

とにかく指示通り何かをさせることと、こちらの意図や思いを相手に正確に伝達することは全く意味が違うと思う。
指示通り何かをさせるのことですら苦労するような人たちに、こちらの意図や思いをきちんと伝達し記憶に定着させ必要なときに引き出せるようにする、ということは、本当に至難の業に思えてくる。。