ネイティブ化について考えているうちに、急にもう一度読みたくなった本。
その中の一節。
五感は最大の障害物
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ふたりはやがて、声や文字や記号に託すことばがいらない、まったき相互理解の境地に達する。思考や感情を共有するのに、いちいち象徴を使ってそれを表現する必要がないことがわかってくる。そして、たがいの調和を自覚したふたりは、自分たちが他のすべての生き物とも調和していることに気が付いていく。
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「 ヒトはイヌとハエにきけ―異種間コンタクトの方法 J・アレン・ブーン 著、上野圭一 訳 講談社」 より
(以前もちらっとここで紹介したことがある。)
ふたりとは、著者(J.アレン ブーン)とストロングハートとという名のジャーマンシェパード(イヌ)の事だ。
自分もイヌと生活を共にしていた経験があるから、ここに書かれている内容が単なる眉唾ではなく、出来得るならば自分もそこに行き着きたいと思うものだ。
そして音楽人として思うのは、ヒトとヒトが音楽を介してコミュニケーションできる可能性があるとすれば、さらにその延長線上にこの境地があって欲しい。
言い方を変えて、本来持っていたコミュニケーション能力を失った代償として、音楽をはじめとする芸術という一見いかがわしいモノがヒトの文化として成立してきたのではないかと。
しかし、その音楽でさえ今はその役割を充分に果たすことが難しい場面が増えているのではないかと。
先述の本は、今日の夕方、少しだけ気温の下がった風を受けながら、前半(イヌの部分)まで読んだ。
後半はハエのフレディーが出てくる。
特に導入のガラガラヘビのくだりは説得力があると思っている。
ゆっくり噛みしめながら読み進めよう。
そして、何度もはじめから読み返そう。
もう一つ引用を付け足そうと思う。
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「イヌにかんする事実がある。またイヌにかんする意見がある。事実はイヌのものだし、意見は人間のものだ。イヌにかんする事実が知りたいのなら直接イヌから知るしかない。意見がほしいんだったら人間にきけばいい。」
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2010/08/31 10:29
チンぷんカンぷんなコメントになりますが・・・
最近、カナダのCBCという放送局がネット上で開局しているCanadian Composers というチャンネルをよく聞いています。そこは、現代のカナダの作曲家が作った曲をずっと流しているわけですが、調性もあり非調性もありいろいろ。曲の解説はなにもなくて、ひたすら、いろいろ人のいろいろな曲が特に脈絡もなく流れています。
で、
時々、言葉でいえば「あぁ、いいなぁ」、
あるいは、
脳みその中の「なにか欠けてしまった空間」に
ぴったりおさまってしまう曲に出会うことがある。
それは、作曲の技術的に、ハーモニーがどうとか、対位法がどうとか、オーケストレーションがどうとか、そういう問題ではなく、「脳味噌のなかの空虚」を隙間なく埋めてくれた、という感覚です。
誰が作ったかもしらず、曲名もしらず(見ることはできるけれど)、ましてその人が、どういうつもりで、何を表現しようとしてその曲をつくったのかもしらないわけですが、そういう曲に出会うと、「自分のことをわかってくれているひとが、この世界のどこかにいた(いてくれた)」という安堵を感じるわけです。
その瞬間に、見知らぬ人と音楽を通じて、コミュニケーションできたのかなぁと思うわけでございます。ところが、その曲の出自を調べてみたりすると、なんかがっかりしたりすることもあるわけで、・・・となると、さっきのあれは、なんだったのか・・・と思うわけで、音楽では何もつたえられないのではないかと絶望するのでございます。(まだ諦めた訳ではない)
いいたいことがあるのなら、言葉にすればよかった、
250分の1秒で勝負する写真家になればよかった(これを写真家にいうと怒られる)
#これを書いていたら、音楽の神様から電話がありました。
「お前みたいなグウタラには・・・・・・・・・・」
ところで、最近
”曲”のことを、「楽曲(がっきょく)」と呼称することが多い気がするのですが
なにやら、耳障りです。
それなら、「作楽曲家」にしなきゃいけないのではないかと。
「楽曲分析」という言葉はあるけれど。
前述の本によると、
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それは一方通行ではなく、想念を双方向にやりとりする架け橋、たまたま「ヒト」の姿をとって生まれたわたしと、「イヌ」の姿をとって生まれたストロングハートとをつなぐ橋であった。
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「想念」という概念でやりとりしているようです。
私はもともと言葉にはなかなか本質が宿りにくく(いや、本質でないモノを乗せやすい、といった方が良いか…)、理論武装すればするほど胡散臭くなる傾向にあると(自戒を込めて)思ってます。
だから、”「脳味噌のなかの空虚」を隙間なく埋めてくれた、という感覚”があったとするならば自分自身のその感覚を素直に受け入れたい、と思うだろうな。
さらに、こんなことも本にある。
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しかし、そこには厳しいルールがつきまとっていた。その橋に託して送るのは私の最善の想念でなければならないというルールである。
〜略〜
とはいえ、わたしはときおりルールを失念することがあった。 〜略〜 知能の高いイヌを前にして虚勢をはる愚かな人間が陥りがちな、低レベルの関係しかもてなくなった。
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私なりの解釈では、今まで積み上げて自分が持っている(ちっぽけな)知識や経験に縛られ、より自分のほうが優位である、と思ってしまったとたん本質を見失うのだ、という警告なのかなと。
ま、根拠もなく単に何となくそう思っているだけではありますが。
そもそも音楽の場合、送り手もヒトな訳で、こちらに送られてくるものが「最善の想念」であるかどうか確かめる術もない。
ただ、仮にも音楽そのものから何か受け取ることが出来たのなら、それは余計なしがらみが付きまとったヒトの言葉より少しは純度が高いのではないのかしら?と思いたい。
残念ながら純粋の塊であるストロングハートのようなわけにはいかず、単純ではないでしょうけれども。
> それなら、「作楽曲家」にしなきゃいけないのでは
単純に「作家」が好きだな、ワタクシは。
文筆屋だけじゃなく造形屋や写真屋だって「作家」って言うモンね。
もう、だいぶ歳をとったので、
誰がなんといおうと、絵でも、音楽でも、映画でも、本でも
世評に惑わされることなく、自分の感覚を尊重することにしているのですが、
先般書いたように、背景に惑わされるのです。
がっかりの反対に、なんじゃこりゃとおもっても、
立派な経歴が書いてあったりして
「世界」が認めているのに、自身がなにも感じないというのは
やはり、こちらがおかしいのかと。
まあ、評論家ではないので、「その音楽とわたし」との関係さえ
明白であればいいのですが。
>単純に「作家」が好きだな、ワタクシは。
もっと単純に「作者」のほうがいいなぁ。
自分の閾下には、世間の評価と自分自身の感じ方は違って当然、というのがあるのだ、と感じてます。
アマノジャクなんでしょうな。「大勢は常に正しい」ではないから気を付けろ、と。
それが良いことか悪いことか自分では判りません。
もちろん「大勢」に正しいこともたくさんあるわけで、それらをじっくりと見極める術を磨く事が私自身の課題のつもりです。
アマノジャクは、「みんなが右に行くのなら、わしゃ(なにがなんでも)左にいく」レベルじゃないですか?わたくしは・・・・なりきれず。
自分が自分を信じてあげないでどうする?
という感覚なんですがね。
「何がなんでもみんなと反対」に見えてしまうこともあるのだろうとは思いますが、あながち「いつも違う道」ではないと思っているつもりではありまする…。
でも、「マイノリティ」だという自覚(少しだけ誇り)はあります。
「疑う汝を疑うなかれ」
頭の中に、検事と弁護士と判事がいて、”自分”は被告で
なにやらいつも、わぁわぁやっております。
「どこへ行くべきか・・・・」
「どこへ行きたいのか・・」
老師に若い修行僧が、「道」とはなんですか?と問うたところ
師は、一言「行け」といったとか。
べつの修行僧が、修行にでて、30年後に帰ってきて
「ついに、水の上を歩けるようになりました」と
修行の成果をつげたところ
「船に乗れば水の上を渡れる」と、一笑したとか・・。
音楽語法の話から
随分遠いところへきてしまいました。