9月
19
しばらくぶりの
風の便りが届く。
中身は何の変哲もない事務連絡。
…ではあるものの、先日のように、それはなにかのサインなのかも知れないと考えてみる。
根拠は特にない。いや、いくつかのごく小さなかけらをもとに頭の中のどこかでそう感じているのかも知れないけれど、もちろんまったくあやふや。
何往復かのやりとりのなかで、もう少し違う状況も知ることになり、やはり、なにか微弱な信号がでているような気はしたのだが。
世の中、そんな聞き取れないような微少な信号であふれかえっているのに、誰も聞き取れないとするとなかなか辛いし苦しいな。
自分のアンテナ感度は鈍っていないだろうか。
あ、そうだ。最近、中国製ラジオでともて高性能なものがでてきているらしい。あるWEBの紹介では「国内民放全局制覇をねらえる」との記述も見られる。値段も高性能な割にお安く。
もっとも、感度が良くても誤動作ばかりでは困ってしまうし、もし仮に何かの信号をきちんと捉えたとしても、それに対して何かできるかと自問すると、何にも出来ない事に気付き狼狽する。
だから無意識に感度を下げ信号をノイズに埋めて解らなくするのかも知れない。
…ま、考え過ぎの思い過ごしかな。
爽やかな秋の風に乗って届いた風の便りで様々思いを馳せてみた。
風に便りを聞いた。
もうすべては灰になり果てたと思っていたものが、
吹き抜けた風で、再び赤く熾り輝いた。
炎を見つめながら
わたしを駆り立てた一言半句を、幾度も反芻する。
頭の中で行ったり来たりしているだけなら
それは、空想。あるいは、幻。
しかし、言葉として音にしたり、文字にした瞬間から
莫大な質量を帯びて、わたしを脅かしにかかる。
これ以上は危険だ。
…ま、考え過ぎの思い過ごしということにしておこう。
爽やかな秋の風に乗って届いた風の便りに様々思いを馳せてみた。
Everything reminds me of something.
楽譜はあくまでも記号。
しかし、その記号ひとつには「対応するひとつの意味しかない」ではなく。
ひとつの記号が内包するあらゆる背景や意味を推測し検証する。いや、しなければならない、ということをやってきた。
だからこそ、単なる記号でしかないはずなのに
> しかし、言葉として音にしたり、文字にした瞬間から
> 莫大な質量を帯びて、わたしを脅かしにかかる。
という強迫観念がいつも付きまってしまう。
さらに「間」などという、何もない空間に対してさえ「何か」を感じる文化の中にいるとそれは加速する。
でも、音や文字は単なる記号にしか過ぎず、(送り手としても)それ以下や以上ではないのが世の大半なのかも知れない、と最近は思っています。
> これ以上は危険だ。
バランスを取るという意味でもリミッターをかけなきゃならんのだろうな。