洋物の音楽映画を見ていると、必ず出てくる「神」の存在。
最近いくつか連続して映画の中でそのことを目の当たりにして。
人を超越した絶対的な「神」の存在が人自身の行動の規範や制約となり、音楽も神からの啓示を受けて創造される。(と信じている。)
「神」というもの(偶像があろうとなかろうと)が、自身の向かうべき目標や信じる対象となり、神の名においてすべての苦労は試練として昇華されてしまうのだ。「神のご意志」「神の思し召し」が人の意識を支配し、人はその手のひらの上で俗世を生きる。
さて、私には私を支配する神が存在するのだろうか、と自問してみた。
今まで自分は無宗教だと思っていた。なぜなら、最終的に自分の行動を決するのは自分以外にいない、と信じているからだ。
実家には仏壇がある。我が家にも亡き者を弔うスペースはあり、花を飾り食べ物を供え手を合わせる。しかしそのことが日常の自分の行動規範になっているかと考えると、漠然と大きなくくりで何かあるような気もするが、具体的なことはあまり思いつかない。
また、日本には古来より八百万の神がいる。大きな樹木や岩や滝や世の中のすべての物に精霊がつき、人はこぞってご来光を拝む。
自然崇拝。決して私は嫌いではない。むしろすばらしい景色に遭遇すると神々しさを感じ、ああ、自分は日本人だなぁ、とうれしく思う瞬間がある。
しかしこれでも、日常の行動規範としては弱いのではないか。自然を大切にする気持ちとか、畏怖を感じる場所とか、それによって身を引き締めよう、などと思うことはあるだろうが、直接的に日常の具体的行動に直結することはさほど多くないと思うのだ。
とらえ方を変えて「自分自身の思考や行動を支配する何か」と、別の思いを巡らせてみた。
で、気がついた。私にとっての神は音楽だ、と。
いやいや、そんなにかっこよくないし簡単明瞭ではない。
ただ、「私にとっての神は音楽だ」と考えるといろいろなことが説明できるんじゃないかと気がついた。
私は、すばらしい理想の「音楽」の実現と人の生き方をオーバーラップさせて説明することが多い。我を忘れて時間を忘れて話し込んでしまうほど(聞かされる者にとっては迷惑な話だろう)、皆に一番知ってほしいのはそれだと思っている。
私にとって音楽とは、無条件で信じ、目指す事なのだ。
信じ、目指し、理想の音楽を実現するために、自分がどうあるべきか、どう考えるべきかの根拠をそこに求めている。すなわち自分の行動の規範が生まれる。
そうだ! 信じることにより規範が生まれるのだ。
そうか、私がTSW部員達に理解してもらいたいのはここなのだ。
やっと自分で整理できてきた気がする。
しかし、まだ音楽経験の浅いTSW部員達に、いきなり「音楽の奇跡を信じよう!」と言ったところで何のリアリティもないだろう。
世の中の大半の吹奏楽部員が絶対的に信じることは、「目指せ普門館!!目指せ全国大会!!」なのだろうと思う。
わかりやすく信じやすく目指しやすい。皆が同じ向きになるためにこんなに効果的なことは無い。私もよくわかっているつもりだ。
しかし、私はそれを「本質ではないと」言い放ち、決して潔しとしない。なんと愚かなことだと思う。「信ずべき物」の選択肢を減らしているのだ。
だから、TSW部員は悩み苦しみ混乱する。
心から信じてほしいものになかなか到達できない苦しさ。
みんなそこまで行きたいのに。
大切な物は目に見えない。
大切な事は聞こえない。
大切なものに触れられない。 …。
このジレンマ。
信じるものがない状態でめいっぱいやれ!って言うのは酷だよな。
すべての行為がただその瞬間をやり過ごすための作業にしかならない。あるいはその作業すらあきらめ、首をすくめてひたすら嵐が過ぎるのを待つ、そんな印象を強く持つ。
少しずつ、ぼんやりと、見えてきているようでもあるがまだまだ半信半疑だし、すぐ見失ってしまいそう。
信じるべきことを、どうやって理解したら良い?
信じることを確固たるものにするには何をしたら良い?
それぞれの神をどうやって見つけたら良い?
神?
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