地震・雷・火事・親父
抗うことの出来ないものの代名詞。
子供の頃よくこうやって恐ろしい物を例えるの聞いた。自分も良く口にした気がする。
大自然とか災害とか自分の親とか。どうやってもその関係を断ち切ることは出来ないのをいいことに自分の前で行く手を阻む物。
だからこそ如何にしてそれを越え、克服し、やり過ごすか、知恵と工夫を巡らす。
あるいは、「従わない」という意志を示すために自暴自棄になったりする。
そして、それら行為について「若さが故の…」という言い訳もある程度通用した。
なぜなら、その中では後に立派に一人前になっていくことを知っているから、厳しいながら暖かく見守っていける寛容さを回りが持ち合わせていたからだろうと想像する。
ここで書いた【「父性」と読み替えて良いのではないか】というのは、その「自分の前で行く手を阻む物」、もしくは「そう感じさせる何か」、それから「厳しいながら暖かく見守っていける寛容さ」が父性なのではないかと思ったのだ。
それは物分かりが良くいつでも自分の味方だと思わせる類の物ではない。いわば逆境の素だ。畏怖を抱きつつもいつかは越えてやるという目標、と言い換えて良いかも知れない。
その環境が人を育てるのだということ。<< 「当人が不安定な状況に耐えられるかどうか」 >>という事(ストレス耐性ですね)ですら、その環境の中で育つのではないかと思う。
それが、今なかなか容認されない。
それは、既に抗うことの出来ないものは克服したのだ、という人間の傲りかも知れないし、単に不快なモノは抹消すべきモノとする勘違いなのかも知れない。
とにかく「オヤジ」はいつの間にか、物分かりの良い友達みたいなおとーさんが理想となって、地震・雷・火事の次には並ばないご時世になった。
で、人が育つはずの<< 放っておいても自発的に学ぶような場 >>が減り、<< 不安定な状況にいるという危機感が、学びの効用を飛躍的に高める >>という認識は少なくなり、<< 自発的な学びとは、与えられるものではなく、自ら問題を見つけることです。何を解くかではなく、何を問うかです。それを習慣とするためには、好奇心や感受性を研ぎ澄まし、今までの自分を壊して、新しいものを受け入れ続け >>ることが難しくなっているのだと思う。
−−念のため。決して現在の「父親像」を論じているのではなく、世の中の「父性」という機能が働くなっているのではないか、と心配している。−−
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