怒濤の7月が一区切りついた感じ。大変だったなぁ。(この後はまた別の意味で大変だ。)
嫌いだ嫌いだ、と言いながらも、吹奏楽をやるからにはコンクールを避けて通るわけにはいかなくて結局どっぷり浸かっている。そして見誤る。なんだかなぁ…。
今年は、コンクールに向けての練習や本番で起こりうるアクシデントやトラブルの続出だった。良いことも悪いことも。
一つの団体で色々起こっているわけではないけれど、私と何らか関わりのあるそれぞれの団体で次々と起こるから、自分が疫病神だったのではないか、と思い始めている。
部活動としての崩壊、練習時の内容(これはまさに自分の責任部分)、本番時の大きなミス、タイムオーバー、コンクール規定違反、審査員として得点化することの出来ない評価の悩み、自分達が感じる演奏の出来と実際の評価の乖離、などなど。細かいことを上げればまだまだキリが無く。
どれも現実。だからこそ、その中で一つ一つ出来ることを積み上げていくしかないのだろう。
でもやっぱりどうしても、「金」「銀」「銅」「代表」だけでは計りきれない音楽的充実度があるということは強調したい。いや、百歩譲って「活動的充実度」でも良い。
学校吹奏楽は「人を育てる」ことが第一義で、それを楽器の技術習熟度や音楽の完成度を通して評価していくべきだと私は思っている。巷でよく聞かれる「あそこから来た生徒は確かに上手いけど高校では全然続けられないんだよな。どうやらどこ行っても同じ。」みたいになっちゃうのは成果主義に傾きすぎて大切なことを忘れちゃったかぁ、なんて思うわけ。
とはいっても吹奏楽コンクールは音楽演奏のコンクールだから本番での出来が成績順位に直結するのは当然だし、努力の結果目に見える成果や評価が欲しいのも当然だ。そのバンドの背景を演奏から明確に聴き取って点数化することは難しいから、出てきた「音」が最重要であることには間違いない。
しかし。
例えばこんな例。
審査した大会で、ティンパニ4発を横一列に並べている団体があった。演奏方法はマリンバのようにサイドステップを踏みながら、しかもヘッドの真ん中を叩いていた。それではきっと難しいだろうなぁ。他の楽器も同様な事がたくさん見受けられたが、中にはどうやったらそんなに器用に吹けるの、といったような音も出てくる。が、全体の演奏クオリティは決して良くない。いや、はっきり言って悪い。したがって評価としてはどうしても高い点は付けられない。
でもね。そこで演奏している人達の情熱は感じるのですよ。きわめて演奏しにくい方法でそれだけ出来るようになるには大変だったろうな、と。ただ、正しいとされている演奏の仕方を知らなかっただけ。今の世の中、手を伸ばせば正しい情報なんてすぐ手に入れられるからそれこそ努力不足だ、といってしまうことも簡単だけど、言い捨てて「はい、おしまい」ではあまりにも無責任だと。
何より、どう考えても正しくない情報の元で、一生懸命やっている生徒達がそれに気付いたときの落胆を思うと、いまのその情熱だけでも評価してあげたいなぁ、と思うのだが、結局「講評」という点数化できない曖昧なところでフォローするしかない。
例えばこんな例。
長い時間かけて少しずつバンドの状況が良くなってきた。人数も増えメンバー相互の関係がとても良くなって、それに伴って練習の仕方や運営の仕方など高校生としての自主活動が充分成り立っていく良い流れにあった。楽器の技術はまだまだ発展途上だが、たまにとても良い音がして相互の関係が見える音楽的なアンサンブルが出来るようになった。で、結果は「えー、どうしてそうなっちゃうの?」と言いたくなる低い評価。出てきた音の評価だけだとしても私には妥当だとは決して思えないのだが、コンクールである以上それは致し方ない。色々な考え方がある中での審査なのだから。しかしそうなると生徒達は今までやってきた努力を全面否定されたようなとらえ方をしがちだ。音楽的な思考とその表出方法を学び拙いながら表現という領域にたどり着こうとしていた諸君が「認められなかったのだ」とそのプロセスすら自己否定をし始めたとしたらこれほど残念なことはない。
だからこそ「音」の渦から「音楽」をきちんと嗅ぎ分ける力が必要なのだが、私自身全然力及ばずであった。
それは、次々と出てくる結果でわかるはずなのだろうが、始めは、なぜそうなるのか良く判らなかった。
そんな折、あるJAZZユニットを知る。私の中学時の後輩絡みなのだが『中3の姉と小4の弟による小さなJazzユニット「サファリパークDuo」』のことだ。
ユニットの説明といくつか紹介されている演奏動画を見ているうちに自分の中で何かが弾けた。
「自分は大切なものを忘れていた!」
そう、コンクールの魔物に振り回され大切なものを見失ったまま臨んだ当然の帰結としてコンクールの結果が返ってきたのだ。
偉そうなこと言いながら結局「金」「銀」「銅」に振り回されていたんだ。
なんということだ。
もう一度最初からやり直しだな。みんな本当にゴメン。
こんにちは
長久手高校の吹奏楽部の者です。
ずいぶんまえに、尾張旭のスギヤマ薬局でこえをかけてくださいましたね。そのまえから、ずっとお世話になっています。
ぼくは、まえも長尾先生にアルメニアンダンスのときにメッセージを送りました。
すこし、コンクールのことについて
部活のことについて話させていただきます。
結果は、銀賞でしたがとても楽しかったです。なぜか、もう賞なんてどうでもいいと思えている自分がいました。
地区大会のときにはやはり終わりたくないという思いから結果をかなり気にしました。その結果一位抜けで
すごくうれしかったです。
やはり、結果がほしいんだな…
とおもいましたが。
じつは、あの演奏で感動して涙を流してくれた人がたくさん見えたそうです。
そんななか長尾先生がレッスンでよくいってみえたことを何回も回想していました。ここの音楽好き!といってくださったのがいちばん印象に残っています。
やっぱり、いわゆる強豪高校はすごかったですがそれとちがう一面が県大会では出来たんではないかとおもいます。
あの、合ったときの幸福感はいまでもわすれられません。
自由曲のアンダンテなんかは、
メロディーにきもちがこもっていてほんとうになみだがでそうでした。
本番のまえ、舞台袖で僕に「楽しんでこいよ!」っていってもらってすごく
楽になりました。じつは、チューニングルームでみんなの音があっていなくてちょっとムードがわるかったので…
あのときに、あの一言をかけてもらっただけで肩の荷が軽くなったようなきがしました。
それで、吹奏楽とはこれか!
と、気づきました。
なにが、その瞬間おこったのかはわかりませんがそんな気分でした。
その後、結果発表がおわって上にはいけなかったけれどほんとうに去年より終わりたくないという思いがつよくて涙がでました。
悔しいというより、寂しいという感情です。
いえでも、よくなきました(笑)
長尾先生の考え方は、
いつも他の学校で吹奏楽部をやってる子にも話しています。
こうやって、すこしでも長尾先生の考え方が広まったらうれしいとおもいます。
あの瞬間、みんなはたしかにあの舞台で自分達の強豪高校にはなく、成績にも反映されないけど、すばらしい演奏をしたとおもいます。
できたと思います。
その時、ああこの部活は素晴らしい。そう思いました。こんな、いい部活どこにあるんだろうと。
吹奏楽とは、いや音楽とはほんとうに心だとそう確信しました。
音程、ピッチももちろん大事ですが
心や、感情はその上をいくと思います。
なかなか、うまくまとまらずにすいません。
でも、この三年間長尾先生のおかげでほんとうに吹奏楽の楽しさを知り心が震えるような感動体験を味わわせていただきました。
三年間、本当にありがとうございました!
追伸
ちなみに、次の吹奏楽フェスなにやるんでしょう。楽しみです!
自転車に乗った男子高校生3人が視界の中に入ったなと思ったときに、大声で歌っているのがアルメニアンの冒頭のような気がして、振り向いてみたら、あなた達だった、という訳です。
さて、Ben5さん、コメントありがとうございます。
演奏中ももちろん、演奏直後の写真撮影時もとても熱い気持になりました。みんな本当に良い笑顔してたから。
音楽が持っている不思議な力を自らの手で引き寄せたのだろうな、と感じます。本当に素晴らしい。
そして、私はいつも若い皆さんから力を頂きます。
ありがとう。
本当にありがとう。