3月01 デジタルとアナログの 2014年3月1日2014年8月7日 NGO 境界ってあるのだろうか。 漸近線のようだろか。 あるのだとしたらどこだろう。 いや、いずれは連続的に繋がるのか。 それって人間の限界を考えることなのかな。 久しぶりの記事。 本日、咲き誇る梅花の根本に、薄い青(オオイヌノフグリ)と赤紫(オドリコソウ)と黄色(タンポポ)を見つけた。毎年の事ながらこれらの小さな花々を見ると妙にほっとする。そしてそろそろ記事書かなきゃ、という気がした。
音に関して言えば、空気を構成する物質の分子の間隔以下でサンプリングとクォンタイズを行えば、デジタル化されたアナログではないかと・・・・
ナイフでどれだけ細くきっても、一度切った羊羹は切れてる。
しかし、羊羹を構成してる、物質の分子の間隔以下で切れば
最初から《切れてる》んだから切れてないのとおなじなのではないかと。
フィルムのカメラで撮影した、昔の恋人の写真が捨てられません。
一応スキャナーでデジタル化してありますが・・・・。
(紙焼きだろうとデジタルデータだろうと)写真はやはり実体ではない。(だからデジ-アナの境界問題はそれほど大きくないと思う。)
しかしその写真に「魂が宿る」とすれば途端に写真という偶像(?)と実体の境界が曖昧になる。
目に見える物と見えない物の境界かも知れない。
いや、フィルムの写真は、それを撮影した、時間・場所と、つながっているとイメージできるのです。光の粒子をフィルムに化学変化によって定着させているわけで。実体ではないけれど。デジタルデータは、「数字」に置き換えられているわけで。
光の粒子の定着。数値化ではなく固定化。
人の記憶が時空を越えてリアリティを持つのもそういうことかな。