まずはこちらをご覧くださいませ。
「ある会社で配布された、「新入社員へうちの会社が求めていること」という資料が、すごい本音だった。」という記事。
FBシェアにて、それに対するコメントともに流れてきた。
なるほど。私にはその内容がよくわかると思った。それを新入社員へ伝えたい気持ちもよくわかる。
一方、よくわからないのは「すごい本音だった。」という紹介記事の見出し。
見出しはWEB上で目立つための方便、ということを差し引いてもやはり多少の違和感がある。
「本音だった。」には「本音なんだから表に出しちゃ駄目でしょ」なニュアンスが見え隠れしてるように思うから。
「あーあ、言っちゃいけないこと言っちゃったよ。」な。
そうなのか。ここに書かれていることは「本音」であって、ふつうは表に出てこないことなのか。(表に出したら駄目なことなのか。)
新入社員にこうやって望んだり期待することは当たり前じゃん、と思う私は、もう既にこの段階で感覚がずれているのかしら。
次に「へぇ」と思ったのは、この記事に対して「こんなことしない」とか「こんなことできない」とかな人が以外に多いかも、と感じたこと。
「この要求は難しいんじゃない?」とか「できないでしょ」とか「出来たら良いけど」とか、他人事のような雰囲気を感じる。
さも当然のように「(自分は)どれもしない」などと実際に発信してる場合も見受けられたが、それは別の話。この記事の内容の先にあるものとか、書くにあたっての(…書かなければならなかった)想いとか、この文章中の文字として書かれていない部分にまで思い至ることが難しい場合は、「それはしない」で片付いてしまうのだろうな。
もちろん、特に若い世代の人達が「それはしない」で片付いてしまいがちなのは今も昔もあまり変わらないように思う。
そんな鬱陶しいこと聞く耳持たんぜ、は有る意味若者の特権だし。
だからこそ、そこに社会がどう働きかけていくか、という事が問われているのではないか。
「すごい本音だった。」という言葉になって現れたその記事が、話題になって何万の「いいね」をもらうということ(「いいね」と思う人がそれほど多いということ)自体、「本当はそうあってほしいけれど、本音言っちゃうとなかなか難しいからねぇ…」と感じて、しかし何もしないで「近頃の若いやつらときたら…」と文句だけ言っている人が実は多いのではないか、と物語っているように感じた。
一方では、この会社は、新入社員をまじめに育てようとしていることを強く感じる。入社した人材を本当に大切にしているからこそ、この働きかけをしてるんだと思う。育てるって莫大なエネルギーが必要なのだもの。その覚悟、意思の表明でしょう。新入社員がそれにどう対応するか、ではなく。
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